せっかくだから歩きましょうと由姫は言った。
純也の足と片方の手首を解放し、左手の指を鷲摑みにする。逃がさないと脅かすように力をこめて握ってきた。関節が痛んだが、純也はもう振りほどく努力さえできなくなった。
そうして一歩、彼女に引きずられるように前に出たとき、不意に赤いセーターの袖口が伸びて純也の上着のポケットに滑り込んだ。
「あっ」
反応する暇はなかった。
きれいに切りそろえ、光を反射するエナメルで飾った指先が、純也の携帯電話を奪った。
「お預かりしますね」繫いだ手とは反対側のポケットにおさめる。
「おい、それは──」
取り返そうと、急いで繫がれていないほうの手を伸ばした。すると由姫は、いちどはポケットに滑り込ませた携帯電話を二本の指でつまみ、海側に差し出した。
港と海のあいだには障害物は何もない。携帯電話は白い指に挟まれ、波の真上に翳された。
伸ばしかけた腕から力が抜けた。やめてくれ、と口の中で言う。
由姫は口端を横に引いた。
そしてまた、携帯電話をポケットに入れた。
「お預かりしておきます。なくしたらいけないから」
そう言って、純也の手を引っ張った。
純也はよろめきながら彼女に従った。
港の賑やかな喧噪が少しずつ遠ざかって行く。車道を渡るとき、信号で停まっている市電が目に留まった。その先には細いコンクリートのホームがあり、『十字街』と書かれたプレートが見えた。
道路を渡りきると、由姫は歩道を左に折れた。このあたりは古い時代の洋風建築が多く残っており、それゆえに景色に変化がない。そんな地区を進むのに、由姫の足取りには迷いがなかった。何度もこの道を歩いたか、そうでなければ、よほど印象に残っているただいちどの思い出を胸に抱いているかのどちらかだろう。
「お母さんと──来たことがあるのか?」
尋ねてしまった。
由姫は振り返らなかった。
前を向いたまま、ただ「どうでしょうか」と答えた。
それを聞いた純也の胸に、ふと閃くものがあった。
「お母さんは元気なんだね?」
由姫は電話を寄越したときから今まで、母親のことを話していない。もちろん純也は何度も訊いた。それを尋ねることは純也の心に痛みに似た負荷を与えたが、訊かずにはいられなかった。お母さんは元気なのか、今はどうしているのか。由姫は答えなかった。純也は「もしかして」と思った。彼女はもうこの世にいないのではないかと。
けれど今の返答は、生きていることをはぐらかそうとしたように聞こえた。もし亡くなっているなら、はっきりとそう答えただろう。この状況、今から向かう場所。亡くなっていることを告げればそれだけで、純也をより深く打ちのめすことができるのだから。
「ああ、そうか……」溜息が語尾を震わせた。一聴しただけで安堵だとわかる吐息だった。「そうなんだな。お母さんは元気なんだな。それなら良かっ──」
純也は口を閉じた。前を歩く由姫が、こちらを振り返ったからだ。その目の冷たさが純也の舌を凍りつかせた。
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