拷問のような時間が終わり、純也は潮風が吹き抜ける港に足をつけた。ここでも由姫が料金を支払ったが、今度は金を出す気になどならなかった。桃色のタクシーは、周囲の観光客の視線を浴びながら去っていった。
由姫が言った「赤レンガ倉庫」は、正式な名称を金森赤レンガ倉庫群という。明治時代に造られた倉庫群の一部を改装したショッピングモールだ。どこからともなく流れてくる陽気な音楽と、行き交う大勢の観光客。賑やかな場所なのに、純也の心は重く沈んでいた。
何度も深呼吸を繰り返した。潮の香りを含んだ空気が肺を満たし、気分を落ち着かせてくれた。桜の匂いがしないだけ、ここは五稜郭よりマシかもしれない。
由姫を見た。
彼女は海に背を向けて純也を見ている。微笑んだ顔は純朴な娘にしか見えないが、もう純也はその印象を信じることはできなかった。
「ちょっと待っていてもらえますか? あそこのベンチで。そうですね、十五分くらいで戻れると思います」
純也は眉を寄せた。
なぜそんなことを言うのかと、表情で問いかけたつもりだった。
由姫は笑みを深くしただけだった。
「じゃあ、またあとで」
そう言うとブーツの踵を鳴らしながらショッピングモールの入り口に消えていった。
突然、膝から力が抜けた。
喉が渇き、粘膜が張り付いた。よろめきながら、護岸のベンチに腰を下ろす。
前屈みになって顔を撫でた。額には冷たい汗が浮いている。背後の海から吹く風が、背中から体温を奪い去った。
どうすればいいのか、まったくわからない。
やはりこの旅行は断るべきだったのだろうか。しかし、それも恐ろしかった。
初めて由姫と話したときは、あまりの衝撃に何も考えられなくなったほどだ。
最初はおかしな電話だと思った。ある日帰宅すると、妻がインターネットの本屋から電話があったわよと言い、電話番号が書かれたメモを渡してきた。純也はよくネットのショッピングサイトを使う。けれどそれは知らない番号だったし、そもそも本屋に注文をした覚えがない。
訝しみながら電話をかけると、出たのは若い女だった。知らない声だった。相手は由姫と名乗った。そして、純也を奈落の底に突き落とす言葉を口にしたのだ。
もういちど、ショッピングモールの入り口を見遣った。
そこに由姫がいないのを確認して、携帯電話を取り出した。仕事用に使っているスマートフォンではなく、私用の携帯電話だ。
着信はない。メールも届いていなかった。
張り詰めた心が、わずかながら緩んだ。
連絡がないということは、妻も息子も信じたということだ。純也が今日この街を訪れるためについた噓を。
しばらく画面を見つめた。指が、自宅の番号を登録したショートカットキーを押しそうになった。それを、寸前で止めた。
電話をかけてどうするのだ。むしろ電話をしてしまうことで、本当は友人と会っているのではないのではと疑われるかもしれない。ただでさえこんなときだ。第一何もなかったとしても、話せるわけがないじゃないか。それとも打ち明けるのか? 今まで秘密にしてきたことすべてを?