奉行所の正面に据えられたベンチに腰かけて、由姫が買ってきてくれたコーヒーを飲んだ。日向は汗ばむほどだったのに、木陰に入ると風が冷たい。手の中のコーヒーがありがたかった。
代金を払うと言ったが、彼女は首を横に振った。食い下がるのも妙な感じがして、純也は黙ることにした。
「これ、昔の方法で焙煎しているんだそうですよ」ペーパーカップのコーヒーを一口飲んで、由姫が言った。「函館にコーヒーが入ってきた頃だから、江戸時代かな。ペリーが来航した頃の焙煎方法らしいです。これも、あの頃には売ってなかったでしょ?」
純也はカップの縁に口をつけた。酸味が強く、はっきりした味が舌に触れた。
確かに、これもあの頃にはなかったものだ。
純也は由姫の言葉を頭の中で反芻した。二十年前にはなかったもの、変わっているところを見つけるたび、由姫の声はあきらかに嬉しそうに弾む。その無邪気さが痛かった。
由姫は純也に会えて喜んでいる。これが最後になるなどとは考えてもいない様子だ。
もういちどしっかりとコーヒーを喉に流し込んだ。
これから言おうとしていることを考えると、心が重い。
君と会うのはこれきりにしたい。
その一言がどれだけ彼女の心を傷つけるかを考えると、純也の舌は罪悪感で痺れた。
溜息をついた。
由姫はさきほどから黙っている。
もしかしたら、純也が言おうとしていることをすでに察しているのかもしれない。そう考えたとたん、言葉がこぼれた。
「……すまなかった」
出てきたのは本当に言いたい言葉ではなかったが、それでも気持ちがこもっていた。
由姫は首を傾げた。
「何がですか?」声が硬かった。
「……君には──できるだけのことはする。……もちろん、その、どんなことでもというわけにはいかないが。いや、こんなふうに言って煮え切らないとは思うが──」
純也は口を止めた。
由姫が、いきなり声を張り上げたからだ。
「すみませーん!」立ち上がって、片手を挙げた。その言い方と仕草はどちらも、見知らぬ誰かに声をかけるときのそれだった。「あの、ちょっといいですか」
戸惑いつつ、純也は由姫の視線を追った。奉行所にカメラを向けていた若い男が、こちらを振り返っていた。
いまどきの若者らしく気取った髪型をしているが、黒縁の眼鏡をかけ、野暮ったい青いチェックのシャツを着ている。男は由姫を見ると一瞬にして頰を上気させ、目を伏せた。
男の様子など構わずに、由姫は上着のポケットを探った。
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