五稜郭公園は、江戸時代の終わり頃に作られた城塞である。真上から見ると五芒星の形をしており、それにちなんで五稜郭と呼ばれた。もっとも五芒星の輪郭を見るには、公園の傍らに建つタワーに登らなければならない。地上から見た五稜郭は、石垣に囲まれた緑溢れる公園でしかない。
入り口の広場に踏み出したとたん、純也は足を止めた。由姫が手を離したが、それにさえ数秒間は気付けなかった。
緑の公園は今、春の色に覆われていた。公園の堤に植えられた桜がすべて花を咲かせ、かすかな風に薄紅の欠片を散らしているからだ。芝生の緑と花の色との対比があまりに鮮やかで、純也は記憶の壁が突き破られるのを感じた。
この景色はほとんど変わっていない。いや、ほとんどではない。
もしかしたら、何もかもがおなじなのかもしれなかった。
そんなはずはない。二十年も経てば木は生長する。なかには倒れて、新しい苗木が植えられ、代替わりした木もあるはずだ。それなのに目の前に広がる淡い色彩の雨と地面の濃い緑、そして頭上に被さる空の青は、あの日から微動だにせずここにあったように純也の胸に飛び込んできた。
砂利を踏みしめる音が横から聞こえた。
引き寄せられるようにそちらを見ると、由姫が覗きこみながら足を前に出していた。音を立てることで、行きましょうと呼びかけたのかもしれない。彼女は純也と目が合うと、視線を逸らして歩き出した。
純也もそれに従った。なんとなく、足元の感触が明確になった気がした。広場を抜け、五稜郭に通じる木製の橋を踏むと、その感覚はいよいよ強くなった。大木を繫げたような立派な橋だ。東京のような都会には、たとえ大きな公園に行っても、こんなしっかりとした木でできた橋はない。
だから、覚えている。頭が記憶しているのとは違った。足にこの橋を踏む感覚が刻まれているのだ。
「そういえば、今日は」橋の途中で由姫が言った。純也の体は勝手に緊張した。「ご家族にはどういう言い訳をしてきたんですか?」
言い訳ときたか。
純也は笑おうとしたが、頰に力は入らなかった。
「……昔の友達に会うと言ってきた」
「昔の友達?」由姫はかろやかに笑った。声の中で、笑みが粒のように弾けた。「けっこうぎりぎりですね。出張とかじゃないんですか」
橋が途切れ、両側を石垣に囲まれた通路を進んだ。
公園のように見えてもこんなところは確かに城塞だ。通路の正面は背の高い石垣に塞がれ、道は左右に分かれている。馬で攻め込んだ者は咄嗟にどちらへ行くか迷うだろうし、なによりいったんスピードを落とさなければならない。
「ぶつかっちゃったら、おもしろいですね」
由姫の言葉に、純也は肩を揺らしてしまった。
「えっ」
由姫はただ正面を見ている。口元が無邪気に笑っていた。
「馬で攻めて来た武士が石垣にぶつかるのを想像したら、ちょっとおもしろくないですか?」笑いを含んだ声で言いながら、こちらを向いた。「……純也さん?」よほど驚いた顔をしていたのだろう。由姫は不安げに眉尻を下げた。
「あっ。……いや」誤魔化すためになんとか笑おうとしたが、できなかった。「そうだね。想像すると、おもしろいかな」
──馬で攻めて来た鎧武者が石垣にぶつかるの、ちょっとおもしろくない?
あのとき一緒にここに来た女がおなじ台詞を口にしただなんて、言えるはずもない。
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