この街の桜は、夏の気配の傍に咲く。
織部純也は、二十年振りの北の大地を踏んだとき、深く息を吸い込んだ。生まれ育ち、今も暮らす東京の街とは空気が違う。春のはずなのに、ぴんと張り詰めた夏の匂いがする。そこにかすかに混じる、甘い花の香り。ここでは本州よりひと月ばかり春の訪れが遅い。
「今年は、桜の開花が早かったらしいですけど」すぐ隣から聞こえてきた声に、純也は瞬きをして、回想を止めた。「今くらいの時期にお花見ができるって新鮮ですね」
声の主に目が引き寄せられる。
「純也さん? どうかしましたか?」
若い女の顔が、そこにあった。
猫目というのだろうか。こころもち眦が上がった大きな目と微笑んだ唇。声は弾けるように瑞々しい。耳元をイヤリングで飾り、白い上着とシフォンブラウスを着て、茶色のミニスカートからは黒いタイツに包まれた脚が伸びている。その先にはショートブーツを履いていた。
純也は太陽をまともに見たように顔を逸らした。
「いや、ただ……降りる停留場を間違えないようにしなきゃと思って」
市電の車内は混んでいた。間もなく正午になろうという時刻なのだから、地元の通勤客はほとんどいないだろう。ガイドブックを広げている乗客も多い。
人垣の隙間に見える窓は埃なのか傷なのかわからないもので汚れている。それでもレトロな車両の雰囲気と相まってか、不快な印象は与えない。曇ったガラスの向こうを立ち並ぶ商店が流れ去って行くところだった。
「このへん、前に来たときと変わりましたか?」隣の彼女が無邪気に尋ねた。
純也は胃が締めつけられるのを感じた。
「……どうかな」そんな昔のことを詳しく記憶しているはずがないだろう、とは言えない。「駅前のデパートはそのままだった気がするよ」
しかし、二十年だ。駅前の交差点には面影があったが、駅は建て替えられていた。
北海道・函館市。
海に囲まれた街は、純也が最後に訪れてから二十回目の春を迎えていた。
昭和の小学校のように素朴だった駅舎は、久し振りに訪れてみると近代的な銀色の建物に変わっていた。駅前広場はバスのロータリーが整備され、赤い現代美術のオブジェが日差しを跳ね返し、高層のホテルが立ち並んでいた。
あまりの変貌ぶりに、しばし呆然と立ち尽くしたほどだ。
そんな駅前で彼女と待ち合わせをし、市電に乗った。清潔な白い壁の駅。昔はどんな姿だったのか思い出せない。一両編成の可愛らしい電車が、大きくきしみながら滑り込んでくる様子だけは昔と変わらない気がした。
それがまた、純也の心に突き刺さったのだけど。
ふうん、と彼女は喉で相槌を打った。その声色に純也はこそばゆさを感じた。若い女の子の反応は独特なものだ。何を考えているのか、どう感じているのか見抜けない。
純粋に甘えているように聞こえる──本当にそうなのかどうか。
「なんていう停留場で降りるんでしたっけ?」若い女は言った。
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