映画『ワイルド・スタイル』と原宿「ピテカントロプス」の交接点

音楽ライター・磯部涼さんによる「日本語ラップ」の歴史をひもとく連載。前回の記事「戦後、原宿の変遷〜セントラル・アパート、竹の子族、ピテカン」に続いて、いよいよ映画『ワイルド・スタイル』の来日クルーが、原宿にあった日本初のクラブにして、80年代サブカルチャーの震源地ともいわれる「ピテカントロプス」へと向かいます。

「あっ、オレの昔の恋人じゃないか!」。

タクシーの後部座席で雑誌をめくっていたファブ・5・フレディが、突然、声を上げた。隣りにいた今野雄二が覗き込むと、開かれたページには話題のポップ・シンガー、マドンナの写真が載っている。それはニューヨークのサブカルチャーを特集した日本の雑誌で、さらにめくると、今度はアンディ・ウォーホルをジャン=ミシェル・バスキアやラメルジー、A-1、レディ・ピンクといった新進気鋭のペインター達が取り囲んだ写真が現れた。皆、フレディのライヴァルだ。

「何でオレは載ってないんだ」。フレディは不満そうだが、話を聞けば、どうやら、この特集の取材期間と、彼が個展のためにイタリアに滞在していた期間とが被っていたようだ。

世界を股にかけて活躍するファブ・5・フレディは、今、音楽監督を務めた映画『ワイルド・スタイル』のプロモーションで東京を訪れている。その時、時代の寵児を乗せたタクシーは明治通りに入った。

"Fab Five Freddy told me everybody's fly / DJ spinning I said "My My" / Flash is fast Flash is cool / François c'est pas Flash non deux"
(ファブ・5・フレディが言ったわ、みんなクールだって、DJはレコードを回し、私は『マイ、マイ!』とびっくり。フラッシュは素早くて、フラッシュはクール。フランソワ・セ・パ・フラッシュ・ノン・ドゥ)(ブロンディ「ラプチャー」より、押野素子・訳)

ニューヨークのパンク・バンドとして知られていたブロンディは、79年のシングル「ハート・オブ・グラス」でディスコ・ミュージックを取り入れ、オーヴァーグラウンドへと文字通り躍り出た。また、80年の「ザ・タイド・イズ・ハイ」ではレゲエに、そして、81年の「ラプチャー」では、いよいよ、ラップ・ミュージックに手を伸ばし、後者も前2曲と同じくビルボード・チャートの1位を獲得する。

ただし、ブロンディが単なるカルチャー・バルチャー(文化的盗人)でないことは、「ラプチャー」のナイト・クラビングの楽しさに満ち溢れたつくりからも分かるだろう。彼らは、リヴィングでTVを眺めつつ、よし、次はラップで行こうと決めたわけではなく、ニューヨークの街でヒップホップ・カルチャーの当事者と共に遊び回った経験を音楽性に反映させたのだ。ヴォーカルのデボラ・ハリーの浮き浮きとしたラップ・パートは、彼女に新しい世界を教えてくれた水先人のネーム・ドロップで幕を開ける。

「ラプチャー」のヒットにより名前が知れ渡ったファブ・5・フレディことフレデリック・ブラスウェイトは、1959年、ニューヨーク市ブルックリン区に生まれた。幼い頃から、自宅には父親の友人だったセロニアス・モンクやマックス・ローチ等、著名なジャズ・ミュージシャンが出入りしていたという。物心がつくと、フレディはグランドマスター・フラワーズやピート・DJ・ジョーンズといった、地元のブロック・パーティで活躍していたDJに夢中になり、周りの子供達と同じようにタギング(ライターとしての名前を壁等に書くこと)も始めた。

彼は地元でヒップホップ・カルチャーの前夜に立ち会っていたわけだが、一方で、学校をさぼってはマンハッタンへと足を延ばして美術館を巡り、アンティークからポップ・アートまで、様々な芸術に触れたという。やがて、豊かな経験と知識を持ち、聖地=サウス・ブロンクスの外部にいたフレディは、この若い文化を歴史に位置付け、別の文化と結び付け、さらに、世界へ向けて宣伝する役割を果たしていく。そして、まずは「ラプチャー」が、続いてチャーリー・エーハンと共に取り組んだ『ワイルド・スタイル』が成果となったのだ。

しかし、日本で発売された「ラプチャー」の12インチ・シングルのライナー・ノーツでは、ラップ・パートの〝Fab Five Freddie〟が〝Fire Fly Freddie(ホタルのフレディ)〟と、あるいは、直後の〝Flash is fast, Flash is cool〟というグランドマスター・フラッシュに捧げられたラインが〝Flashes past, Flashes cool(冷たくきらめいては過ぎてゆく)〟と記載されているように、この国ではデボラ・ハリーが何を歌っているのか全く理解されていなかった(Landy Takeuchi・訳)

そういった状況は、2年後、『ワイルド・スタイル』の日本公開が決まった時点でも解消されていなかったため、プロモーションを担当した葛井克亮は、まず、ヒップホップ・カルチャーを解説する書籍とカセット・ブックを制作。続いて、プロモーション・ツアーを行い、実際にパフォーマンスを見せて回ったわけだ。

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日本語ラップ史

磯部涼

「フリースタイルダンジョン」や「高校生ラップ選手権」の流行、メディアでの特集続き……80年代に産声を上げた「日本語ラップ」は現在、日本の音楽シーンにおいて不動の位置を占めるものとなりました。いとうせいこうらの模索からはじまり、スチャダ...もっと読む

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コメント

vanillableep 80年代原宿のヒップホップ黎明期のことを磯部涼さんが書かれてますね。今夜のドミューンと接続すると思います! #DOMMUNE https://t.co/UYyE93z3kj 2年以上前 replyretweetfavorite

gggggoto510ryot きた!ついにピテカン登場(*´-`) 2年以上前 replyretweetfavorite

consaba 磯部涼 「「あっ、オレの昔の恋人じゃないか!」。タクシーの後部座席で雑誌をめくっていたファブ・5・フレディが、突然、声を上げた。」 2年以上前 replyretweetfavorite