ワイルド・スタイル』クルーが見たホコ天〜戦争・アメリカ・原宿

共著『ラップは何を映しているのか』も話題の、音楽ライター・磯部涼さんによる「日本語ラップ」の歴史をひもとく連載。今回は「ワイルド・スタイル」クルーが目撃した80年代原宿の風景からスタート。そこに至るまでの原宿の戦後の歩みと、現代アメリカのポップカルチャーのミッシングリンクが幻視されます。前回の記事「1983年、NYからの黒船〜映画「ワイルド・スタイル」の衝撃」に続いてどうぞ。

映画『ワイルド・スタイル』の関係者一行は、83年10月5日の記者会見から始まった目紛しいプロモーショナル・ツアーの中で、休日の原宿・表参道を訪れる。そこは、歩行者〝天国〟—通称・ホコテンと呼ばれていたが、瓦礫に埋もれたサウス・ブロンクスがアメリカの生み出したディストピアなのだとしたら、確かに真逆の世界だった。

日本有数のショッピング・タウンを縦断するメイン・ストリートが、車の侵入を禁止することで路上のランウェイと化し、思い思いの格好で着飾った若者たちが他人の視線を意識しながら行き交う。そして、そのショーは、サウス・ブロンクスのヒップホップ・カルチャーの構成員、つまり、B・ボーイ、ライター、DJ、ラッパーが、お下がりや廃品、及び盗品でつくり出すブロック・パーティとも違って、ピカピカの新品に彩られていた。

もちろん、彼らは、同時点でマンハッタンのクラブやギャラリー、ひいてはエンターテイメント業界へと活動範囲を広げており、既に煌びやかな格好をしたパトロンや、奇抜な格好をしたアーティストと出会っていた。しかし、遠い異国のポップ・スタイルは、改めて世界の広さを教えてくれたのだ。

例えば、とある一団は、リーゼントにレザーのジャケットとパンツというファッションで身を包み、ブーム・ボックスで鳴らすロックンロールに合わせてツイストをしていた。しかし、映画『アメリカン・グラフィティ』から飛び出してきたような彼らの顔は、明らかにアジア人なのだ。サウス・ブロンクスの若者たちはパラレル・ワールドに迷い込んだみたいに、不思議な気持ちでダンスを眺めた。

『ワイルド・スタイル』の監督であるチャーリー・エーハンとツアー・コーディネーターである葛井克亮がホコテンに出演者たちを連れてきたのは、国境を越えたスタイル・ウォーズが起こるのを目論んでのことだ。ところが、その前に本当の喧嘩が起こりかねなかった。

ラッパーのビジー・ビーは、リーゼントの男に睨まれているような気がした。彼は咄嗟に持っていたTシャツを破ると、頭に被ってバンドではめ、ゴトラ(イスラム教徒が頭に被る布)のようにして、「私はニューヨークのアーヤトッラー(イスラム教シーア派の高位の称号)だ」と叫び、周囲を威嚇した。日本の若者たちはきょとんとするばかりだったが、ロックステディ・クルーのメンバーたちがサークルをつくり、B・ボーイング(ブレイクダンス)を始めたところ、皆、アクロバティックなダンスに釘付けになった。

こうして、『ワイルド・スタイル』の関係者一行は、ヒップホップ・カルチャーを未踏の地に伝えたことに満足した。しかし、実はホコテンには、既に同時点でB・ボーイがいたのだ。そして、そのようなアメリカ文化を取り入れる早さには、原宿という土地の歴史が関わっている。いま一度、表参道を遡ろう。

原宿でこれから買い物を楽しもうという少年少女が、待ち合わせ場所に使っている旧い石灯籠の歴史に想いを馳せることなどないだろう。そこは、表参道の入り口にあたる交差点で、同地点より北西方向へ約1キロに渡ってケヤキ並木が続くものの、若者は次第に服屋や飲食店へと吸い込まれ、最後まで辿り着く者は年輩者か観光客がほとんどだ。その終点となる広場には巨大な鳥居が立ち、奥には静かな森が広がっている。70万平方メートルにも及ぶ明治神宮の境内。表参道は、本来は名前の通り、参拝のための道なのである。

「現在の原宿は、昭和40年までは原宿・隠田という地名で呼ばれていた。江戸時代、原宿・隠田の2ヶ村は江戸と郊外との接点にあたり、伊賀者の住地で武家屋敷が点在していた。表参道を下った低地には、新宿御苑内を水源とする渋谷川が流れ、所々に水車がかけられ、豊かな田園地帯が続いていた」

鳥居の手前、神宮橋に立つ看板には、昔の原宿の様子が以上のように記されている。そんな長閑な土地に明治神宮が建立されたのは1920年のことだ。明治天皇の崩御に際して、既に陵(墓)は京都市伏見区にあったものの、「東京に神宮を」という声が上がり、同地が選ばれた。まずは、1キロに渡って砂利が敷き詰められ、終点には日本全国に留まらず朝鮮や台湾、樺太から集められた10万本もの樹々が植木される。しかし、そのようにつくられた美しい人工の聖地は、四半世紀後、激しい炎と死の臭いに包まれることになった。

1945年、それまでの東京は消え去った。第二次世界大戦終盤、アメリカ軍はこの長く悲惨な戦争を終わらせるために、日本の市街地を徹底的に破壊し尽くす作戦に着手する。軍事施設のみならず民間人の住居を狙い、戦意を奪おうと考えたのだ。

何より木造家屋はこの国の都市の弱点だった。アメリカ軍はユタ州の砂漠に、日本風の長屋をつくって空襲のシュミレーションを行い、効率的な火災の起こし方を研究した。そして、1944年11月24日に111機のB29がやってきて以降、東京への空襲は本格化、終戦までに122回もの攻撃を受けることになる。1945年3月10日には、死者が8万人とも10万人とも言われる史上最大の空襲、いわゆる東京(下町)大空襲が発生。さらに、5月25日夜には、その倍近い焼夷弾が使われた山の手大空襲によって、原宿も焼け野原となる。同時点で東京は全市街地の50.8%を消失。アメリカ軍が「最早、攻撃目標はなくなった」と判断したほどだった。

山の手大空襲の翌朝、原宿には地獄のような光景が広がっていた。表参道沿いのケヤキはまだぶすぶすと音を立てて燻り、辺りは煙りで覆われている。至る所に転がるまるで黒い人形と見紛ものは、炭化した遺体だ。

表参道交差点の安田銀行は頑丈なつくりだったため焼失を免れたものの、そこには建物の中に逃げ込もうとして叶わなかった人々が2階の高さまで積み重なり、壁やその前の石灯籠には、燃えた人間の身体から出た油が染み込んで黒い跡が出来ていたという。戦後、安田銀行は取り壊され、石灯籠の染みは排気ガスの汚れと区別がつかなくなってしまったが、台座に残された焼夷弾による傷痕は、その悪夢が現実であったことを教えてくれる。

一方、日本が降伏文書に調印した、東京湾に浮かぶ戦艦ミズーリ号の船上には、黒船で使われた星条旗が掲げられていた。それを、本国からわざわざ取り寄せた連合国軍最高司令官、ダグラス・マッカーサーは、自身と、島国に開国を迫ったマシュー・ペリーとを重ね合わせたのだ。やがて、アメリカ軍は東京にやってくると、焼け野原にニューヨークの街並を上書きしていった。彼らは、通りを〝アヴェニュー〟〝ストリート〟と表記して番号を振り、例えば、銀座四丁目交差点はタイムズスクエアと、銀座通りはブロードウェイと呼んだ。

さらに、原宿には本物のアメリカが姿を現す。空軍とその家族のための住宅地、ワシントン・ハイツである。敷地として選ばれたのは大日本帝国陸軍が使っていた広大な練兵場跡地。アメリカ軍にとって、皇居の向い側の第一生命ビルにGHQ本部を構えたのと同じく、明治神宮に隣接したこの土地を接収することには象徴的な意味合いがあった。周囲の住民を砂埃で悩ませていた赤土は緑の芝生に覆われ、827戸もの白い家々が立ち並ぶ。さらに、小学校や教会、スーパーマーケット、クラブまでをも擁するつくりは、さながら、アメリカの街並がそっくりそのままやってきたかのようだった。


アメリカの鳥類学者・オリバー・L・オースティンが撮影したワシントン・ハイツ

表参道は明治神宮のための参道から、ワシントン・ハイツのための通勤路となり、朝と夕方には鮮やかな色のシボレーやフォード、クライスラーといった車が行き交った。そして、バラックに住み、当然、車など持たず、子供たちに至ってはアメリカ軍の兵士がばらまくチョコレートやガムを欲しさに彼らの車を追いかけていた日本人にとって、それらの光景こそが復興のヴィジョンとなる。人々が焼け野原に新しい街を再建するにあたって、ワシントン・ハイツはモデル・ハウスとしても機能したし、同施設の工事を担当したのは日本の会社で、それ自体がこの国の近代建設の幕開けだった。また、同施設周辺には、アメリカ軍の依頼で生で食べられる野菜をつくり始めた紀伊国屋や、彼らのクリーニングを受け持った白洋舎などがあり、日本の消費社会は同施設との関わりの中で発展していく。音楽も同様だ。

日劇でタップ・ダンサー兼トランぺッターとして活躍していた日野敏が、原宿にほど近い千駄ヶ谷に移住したのは終戦から間もない頃である。

当時は空襲によって周囲に高い建物がなくなったこともあり、原宿はもちろん、富士山まで見通せたという。日野もそこにトタン屋根のバラックを建てて家族と暮らし始めたが、戦前からアメリカ文化に魅了されていた彼は、「正座をすると足が曲がってタップが上達しない」と言って、息子ふたりにも手作りのテーブルと椅子で食事をさせていた。やがて、日野と次男の元彦はタップ・ダンス・ユニット、日野ブラザーズとしてワシントン・ハイツ内のクラブにも出演するようになる。

一方、長男はトランペットに夢中で、毎日のように渋谷川のほとりで練習に励んだという。その、10代の日野皓正が吹くモダンなメロディは、日本のポピュラー・ミュージックが戦火を耐え、再び動き出したことを告げていた。

(つづく)

参考資料:
ジェフ・チャン『ヒップホップ・ジェネレーション』(押野素子・訳、リットーミュージック、07年)
チャーリー・エーハン『ワイルド・スタイル外伝』(PRESSPOP GALLERY、08年)
『表参道が燃えた日—山の手大空襲の体験記』(山の手大空襲の体験記編集委員会、08年)
総務省「東京における被災の状況」
秋尾沙戸子『ワシントンハイツ—GHQが東京に刻んだ戦後』(新潮社、09年)
*第二次世界大戦終了直後の記述に関しては秋尾作に依るところが大きい

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日本語ラップ史

磯部涼

「フリースタイルダンジョン」や「高校生ラップ選手権」の流行、メディアでの特集続き……80年代に産声を上げた「日本語ラップ」は現在、日本の音楽シーンにおいて不動の位置を占めるものとなりました。いとうせいこうらの模索からはじまり、スチャダ...もっと読む

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isoberyo 『ラップは何を映しているのか』でも言ったように、音楽の本質は脱政治的なもので、ただひとは政治から逃れることは出来なくて、その前提を確認するためにも『 5日前 replyretweetfavorite