僕がフロアーディレクターをやることになって数日後、結局、ター坊は戻ってきた。
しかしそれは、これまでのような「福岡吉本の将来的エース」というポジションからの降格を条件とする、どこか脆弱な帰還だった。
仏の顔も、三度まで。
というのも、この時の失踪劇はター坊にとって3回目のことだったのだ。
最初は、稽古の途中に買い出しに行くと言って出かけたまま、それっきり戻ってこなかった。
その次は、極めてシンプルに営業の仕事をすっぽかした。
当然、その度に所長の吉田さんは烈火のごとく怒り狂い、その矛先は連帯責任として僕たちにも向けられて、特に相方であるケン坊は怒りの飛び火で、いつまでも延焼していた。
逃げ場のない稽古場に響き渡る、吉田さんの罵声。
耳を塞げない状態で聞かされ続ける、その為す術のない不快音は、幼い頃から聞かされていた母親を罵る父親のそれと全く同じ周波数で、僕は胃の奥にズシリとした重力を感じながら、怒鳴り散らされるケン坊を壁越しに思い遣った。
「なあ、お前らも一緒に来いや」
3回目にター坊がいなくなった数日後、つまり、ター坊が戻ってくる前日の夕方に、事務所の稽古場にいた僕たちは吉田さんに声をかけられた。
「今からター坊の家に行くんやけど、俺とケン坊だけやったら、あいつも話、しにくいやろ? 俺も冷静に話をしたいんやけど、たぶんどつきたくなると思うから、その時はお前らが止めてな」
つとめて冗談っぽくは言ってはいたが、この時の吉田さんは、ター坊に対する怒りよりも、福岡芸人に対する困惑の方が上回っていたと思う。
芸人なら、面白いことを言って当然だ。 芸人なら、営業の仕事は欲しいだろう。 芸人なら、テレビに出たいに決まっている。
それなのに、なんでこいつらは……。
なんで、面白いことが言えないんだろう?
なんで、営業の仕事に穴を空けるんだろう?
なんで、テレビのチャンスを放棄するんだろう?
なあ、なんでやねん!?!?
大阪に、こんな若手芸人はいない。
仮にいたとしても、その瞬間、誰か他の芸人に取って代わられて消えていくのだ。
しかし、まだ何の歴史もない福岡吉本には、取って代わるような芸人がいない。
どうしたって、このメンバーで事務所を運営しなければならないのだ。
少数精鋭といえば聞こえがいいが、なんとかマシな人間を掻き集めた結果が、この人数だっただけだ。
面白いことが言えない、営業はすっぽかす、大事なテレビすらも途中で投げ出す、こんな素人連中と、なんで俺が福岡で一緒にやらなあかんねん!
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