団地の薄暗い階段に、会社の先輩女子が座っていた

病院からの帰り道。星太朗は、団地の階段に会社の先輩だった西野さんが座っていることに気づく。駅前の喫茶店で話をするも、一晩をともにした相手とどう接すればよいかわからない星太朗。どこか上の空な星太朗に、西野さんは旅のことを尋ね、「子供みたい」と笑った。
ぬいぐるみと出版社校正男子の切なさMAXの友情物語小説『さよなら、ムッシュ』を特別掲載!
イラストは、なんと松本大洋さんの描きおろし!

 病院を出てからは一本道なので、すんなりと駅に着くことができた。

 ムッシュに何て言えばいいだろうか。

 それだけをぼんやりと考えながら、足に任せて改札を抜ける。

 見慣れた団地が目に入り、家に戻ってきたことに気が付いた。電車に乗り、駅を出た記憶がまるでない。考え事をしていてそうなることは珍しくないのに、今日はそれがとても恐ろしく感じる。大切な時間がごっそりと奪われてしまったようだ。

 蝉の死骸が目に入り、見て見ぬふりをする。上を見ると、街路樹の葉に見下されている気がした。自分もこの蝉と同じなのだと思いながら、足を速める。

 団地に着いて郵便受けを確認しようとした時、その手が止まった。

「よっ」

 薄暗い階段に西野さんが座っていた。

 どうして。と星太朗が聞くより先に西野さんは言った。

「社長から住所聞いちゃった」

 こすり合わせている手がとても冷たそうなので、申し訳ないと思う。だけど家に上げることはできない。居間の壁を見られるわけにはいかないからだ。

 来た道を引き返し、駅前の喫茶店に入る。へたったソファに座り、コーヒーが運ばれてくるまでの間、西野さんは仕事の苦労話を続けた。

 へぇ。そうですか。大変ですね。

 星太朗は動揺していたので、そんな相づちしかうてなかった。

 一晩を共にした相手と、どう接していいのかわからない。それを悟られないように顔を作るのが精一杯だった。けれど西野さんは、あの夜のことなんてきれいさっぱり忘れているかのような口ぶりだ。

「そういえば、旅は終わったの?」

 聞かれたくない質問をされて、星太朗は角砂糖が入った器をむやみに触った。

「あぁ……いや、これから行きます。行きますけど、なんか、ちょっと怖くなっちゃって」

「え? ハワイでしょ?」

 西野さんが驚くので、星太朗はさらに動揺した。

「あ……はい、いえ、まぁ、そんなようなとこですけど……。あの、僕、日本を出たこともないし、飛行機も乗ったことがなくて」

 ごまかすと、西野さんはぷっと吹き出した。

「森くんって、子どもみたいだよね」

「え?」

「子ども」

 そう言いながら、勝手に角砂糖を星太朗のコーヒーに入れて、スプーンでぐるぐるとかき回す。

 星太朗はなんだか嬉しくなった。

「ありがとうございます」

「え、べつに褒めてないよ?」

 西野さんはさらに角砂糖をもう二つ放り込んだ。

「あ、そうですよね、すみません」

 コーヒーを飲むと、砂糖がねっとりと舌にからみつく。

「甘すぎますよ」

 文句を言うと、西野さんは笑いながら立ち上がった。

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さよなら、ムッシュ

片岡翔

あの日。気がついたら、その子は話しはじめていた。コアラのぬいぐるみのはずなのに。 それ以来、彼はそのことを20年間秘密にして、生きてきた――。 気鋭の新人映画監督・片岡翔が初めて小説『さよ...もっと読む

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