星太朗の帰りが遅いので、ムッシュは心配していた。
検査結果が芳しくないのは目に見えている。星太朗は覚悟ができていると言っているが、人の心はややこしいものだ。そんなに単純なものではないことを、ムッシュは理解していた。
七時を過ぎてからは、お母さんの本を読んでも物語が頭に入ってこない。同じ行を何度も読んでから、やっと次の行へ進む。そんなことに時間を費やしていると、重いドアが開く音がした。
「おかえり。遅かったね」
「あぁ」
星太朗は手を洗うと、すぐに部屋に入った。
「ご飯は?」
ムッシュが聞くと、
「食べてきた」
という言葉だけが、襖の向こうから返ってくる。
ムッシュはそのふた言だけで、結果が良くなかったこと、さらに星太朗の気持ちがまだ整理できていないことを知る。
本を置いて襖に手をかけるが、思い留まって手をおろした。
中の静けさが、入ってこないでと言っているような気がしたからだ。
それからしばらくすると、星太朗はすっと襖を開け、いつものようにトランプを出した。お母さんの物語がやっと動き出したところだったが、ムッシュは待ってましたとばかりに本を閉じて、勝負の場につく。
トランプを配っているときも、ペアを捨てていくときも、星太朗はずっと無言だ。いつになく真剣な様子なので、ムッシュも本気で勝負に臨むことにした。
三巡目でババを引かせることに成功すると、それからは常勝パターンだ。あっという間にカードが減っていき、星太朗のカードは残り二枚になる。その間も星太朗は口を開かなかったが、そのぶん、目は多くを物語っていた。
ぞくっとする気迫のようなものを感じる。目を逸らすと、壁には百二十の棒線ででき上がった、二十四の星がある。たくさんありすぎて、もう収まりきらなくなっていた。
ムッシュは再び星太朗の目を覗き、そのまま手を伸ばした。
星太朗の目が、ぴくっと右に揺れる。
星太朗には癖がある。ムッシュがカードを引こうとするときに、必ずババを確認してしまうのだ。それがどんなに微かな動きでも、ムッシュは見逃さない。
右のカードに手をかける。
はっと、星太朗が小さく息を呑むのがわかる。
そのまま引き抜くと、それはババだった。
「うわ!!」
ムッシュはババを放り投げて、床に突っ伏した。
このときのために、密かに練習してきた悔しがり方だ。
予定通りにババを引いた。
心の中で喜びながら、体中で悔しがる。
「よしっ!!」
星太朗は心を落ち着かせようとしながら、嬉しそうな声を漏らす。ムッシュの芝居は見抜かれていないようだ。
「ちょっとタイム」
星太朗は台所に行って麦茶を注ぎ、それをゆっくり飲み干した。戻ってきて正座をすると、ムッシュが両手に掲げたカードを見比べる。
8を引けば、星太朗の初勝利だ。
左に手をかけると、ムッシュの眉(は無いけれど、そのあたりの毛)がちらりと動く。右に手をかけると、ヒゲの先がふわりと動く。
ムッシュは珍しく、緊張していた。
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