駅前にある古びた居酒屋。その二階の座敷で、ろば書林の社員たちが騒いでいる。
一同は社長のマジックショーに驚き、手を叩いて盛り上がっていた。今日は社長の奢りと聞いていたので、皆いつも以上に社長を手厚く持ち上げている。だが珍しく全員が揃っていたのは、タダ酒が飲めるからではない。星太朗の送別会だからだ。
十数人の同僚たちは皆、星太朗が退社するのを本気で寂しがってくれた。
そのせいもあってかお酒のペースは速く、八時を回る頃にはほとんどの人ができあがっていた。
「で、旅ってどこ行くんすか?」
座敷の奥に寄りかかっていた星太朗は、からまれるように小南くんに質問される。
「えーと……まぁ、色々……」
「色々ってなんすか。どこっすか」
その口の利き方は先輩に対するものとは思えないが、星太朗は怒らない。いちおう語尾が敬語風になっているので、社会人のルールからはぎりぎり外れていないはずだ。
「あぁ、えーっと……ハワイかな……」
星太朗はしかたなく嘘をつく。不自然な顔は隠せないが、相手は酔っぱらっているのでバレないだろう。
「え、ハワイ!? まじっすか。え、自分探しの旅にハワイ行く人とか、いるんすね」
小南くんが憎たらしく笑う。数年前に初めてこの笑い方をされたときには、頭をはたいてやりたいと思った。でもこれはわざとではなく、自然と出ているものだと気付くと、逆に不憫に感じることができた。
「まぁ、ハワイだけじゃないよ、あと、パプアとか……」
「え、パプア? パプアって、パプアニューギニアっすか。パプアって、どこにあるんすか」
「あぁ、オーストラリアの北の方だよ」
どうしてとっさにパプアが思い浮かんだのか、自分でも不思議だったが、幸いなことに場所は知っていた。
「へ~、パプア行って何するんすか? って自分探しっすよね。えー、自分って、パプアに行けば見つかるんすかねぇ」
小南くんがビールのピッチャーを取り、星太朗のグラスに注ごうとする。そこへ、社長が割って入ってくる。自分のジョッキにビールを注がせ、小南くんの肩を叩いた。
「おまえも自分探しに出た方がいいんじゃないか?」
「え?」
「こないだ吉原先生から大目玉くらったの、黙ってただろ」
「え……あ、いや、それは違いますよ」
小南くんがさっきの星太朗ばりに不自然な顔になる。社長はその腕を掴んで、「ちょっと来い」と立ち上がった。星太朗の方をチラっと見て、二枚目の顔でウインクを投げる。
星太朗はほっとして、会釈でお礼を言った。ウインクさえなければすごくカッコ良かったのに、と思いながら枝豆をつまむ。
「飲んでる?」
隣に西野さんがやってきて、グラスにビールを注ぎ足そうとしてくる。
「あ、いや、僕ウーロン茶なので」
すっとグラスを引くと、
「じゃあちょうどいいや」
西野さんはそれを奪い、ゴクゴクと飲み干した。
星太朗はドキッとした。
これは、間接キスだ。
小学生の頃、クラスの男子はみんな、放課後にこっそり好きな子のリコーダーを咥えていたが、星太朗はどうしても、できなかったことを思い出す。
「私、好きだったんだよねぇ」
「え……?」
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