重病で会社を辞める日、トイレにこもる社長に頭をさげた

とうとう、星太朗最後の出社日がやってきた。会社に着いた星太朗がリュックを開くと、ぶりっこな顔をしたコアラのぬいぐるみ・ムッシュの姿があった。仕方がないので、ムッシュを引き出しに入れて仕事をする星太朗。夕方、社長に感謝を伝えるために星太朗が起こした行動とは……。
ぬいぐるみと出版社校正男子の切なさMAXの友情物語小説『さよなら、ムッシュ』を特別掲載!
イラストは、なんと松本大洋さんの描きおろし!

「お父さん、探さない?」

 朝ご飯を食べようとしていた星太朗に、ムッシュがぼそっと言った。

 星太朗は何も答えず、目玉焼きの黄身をつついて醤油を垂らす。

「ほら、浜松のおじちゃんに聞けば、何か知ってるかもしれないし」

 ムッシュがマジックを出して、トーストの横に立てる。自分で書こうとはしない。

 星太朗はそれを取ると、黙ったまま引き出しにしまった。それからパズーのように目玉焼きをトーストの上に載せる。

「お父さんはいないよ」

 おもいきりかじると、半熟の黄身がどろりと垂れた。

 歯を磨き、いつもより丁寧に寝癖を直してから、ネクタイを締める。スーツを着て行こうか悩んだが、普段通りシャツだけにした。

 部屋を覗くと、ムッシュの布団が膨らんでいる。

「じゃあ行ってくる。今日はたぶん遅くなるから」

 声をかけるが、珍しく返事はなかった。寝ているようだ。

 十時を回っていたので、電車は空いていた。窓から入ってくる日差しが、一列に並ぶつり革の影を作り、リズムよく揺れている。

 人が少ない電車はこんなに気持ちがいいものなのかと思いながら、星太朗はシートの真ん中に腰を下ろした。

 辞表を出してから数回だけ出社したが、一度満員電車で倒れそうになり、それからは遅く家を出ることにしていた。けれど、もうあの混沌とした世界を体験することもないのか、と思うと、少しだけ寂しくもなる。

 リュックから本を出して開く。最近は母の本を順番に読み直していた。

 五冊目に出版した〈九姉妹〉という物語は、孤島の森の屋敷に住んでいる九人姉妹の物語だ。母には珍しく、少しダークな内容だったからか、読み聞かせてもらったときのことは鮮明に憶えている。母の声色はいつもと違ってひややかで、星太朗はぞくっと震えながら物語にのめりこんだ。

 電車が地下へ潜ると、空気はがらりと変わってしまう。星太朗はそのタイミングで本を閉じ、一緒に目も閉じた。

 さっきムッシュに言われたことが、頭の中にちらついていた。


 星太朗は、父に会ったことがない。

 文子(ふみこ)は未婚の母だったからだ。

 彼女が二十二歳のとき、バイトをしていた浜松の洋食屋で出逢ったのが父だった。二人はお互いに惹かれ合い、その日のうちに付き合うようになった。

 母は生前、父のことが大好きだったと、誰よりも優しい人だったと、星太朗に言い聞かせていた。けれど、お腹に星太朗ができてから別れたことも、正直に話していた。

「どうして?」

 幼い星太朗が聞くと、

「どうしてかな。わかんないんだぁ」

 母は軽やかに答えた。

「かなしいね」

 星太朗がうつむくと、母はその手を握って、おもいきり首を振った。

「お腹にあなたがいたから、哀しくなんかなかった」

 にこっと笑ったその顔を、星太朗は忘れない。

 きっと、子どもには説明できない何かがあったに違いない。

 身ごもったことを知って、父は逃げたとか。もしかしたら、別に女がいたとか、奥さんがいたとか。考えるときりはないし、悪い想像しか生まれない。誰よりも優しい人だったなんて、大嘘かもしれない。

 けれど母がそう言ってくれたことに、星太朗は救われていた。

 自分に流れている血の半分が、最低な父のものだと聞かされていたら、こんなふうに生きてこられなかっただろう。

 シートを立つと、いつのまにか人が増えていた。

 毎日見ていた乗り換えの駅名が見えると、今日が最後の出社だったことを思い出す。

 ドアが開くと、父のことを車内に置いて、ホームに降りた。

この続きは有料会員登録をすると
読むことができます。
cakes会員の方はここからログイン

1週間無料のお試し購読する

cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。

人気の連載

おすすめ記事

この連載について

初回を読む
さよなら、ムッシュ

片岡翔

あの日。気がついたら、その子は話しはじめていた。コアラのぬいぐるみのはずなのに。 それ以来、彼はそのことを20年間秘密にして、生きてきた――。 気鋭の新人映画監督・片岡翔が初めて小説『さよ...もっと読む

この連載の人気記事

関連記事

関連キーワード

コメント

Tweetがありません