「お父さん、探さない?」
朝ご飯を食べようとしていた星太朗に、ムッシュがぼそっと言った。
星太朗は何も答えず、目玉焼きの黄身をつついて醤油を垂らす。
「ほら、浜松のおじちゃんに聞けば、何か知ってるかもしれないし」
ムッシュがマジックを出して、トーストの横に立てる。自分で書こうとはしない。
星太朗はそれを取ると、黙ったまま引き出しにしまった。それからパズーのように目玉焼きをトーストの上に載せる。
「お父さんはいないよ」
おもいきりかじると、半熟の黄身がどろりと垂れた。
歯を磨き、いつもより丁寧に寝癖を直してから、ネクタイを締める。スーツを着て行こうか悩んだが、普段通りシャツだけにした。
部屋を覗くと、ムッシュの布団が膨らんでいる。
「じゃあ行ってくる。今日はたぶん遅くなるから」
声をかけるが、珍しく返事はなかった。寝ているようだ。
十時を回っていたので、電車は空いていた。窓から入ってくる日差しが、一列に並ぶつり革の影を作り、リズムよく揺れている。
人が少ない電車はこんなに気持ちがいいものなのかと思いながら、星太朗はシートの真ん中に腰を下ろした。
辞表を出してから数回だけ出社したが、一度満員電車で倒れそうになり、それからは遅く家を出ることにしていた。けれど、もうあの混沌とした世界を体験することもないのか、と思うと、少しだけ寂しくもなる。
リュックから本を出して開く。最近は母の本を順番に読み直していた。
五冊目に出版した〈九姉妹〉という物語は、孤島の森の屋敷に住んでいる九人姉妹の物語だ。母には珍しく、少しダークな内容だったからか、読み聞かせてもらったときのことは鮮明に憶えている。母の声色はいつもと違ってひややかで、星太朗はぞくっと震えながら物語にのめりこんだ。
電車が地下へ潜ると、空気はがらりと変わってしまう。星太朗はそのタイミングで本を閉じ、一緒に目も閉じた。
さっきムッシュに言われたことが、頭の中にちらついていた。
星太朗は、父に会ったことがない。
文子(ふみこ)は未婚の母だったからだ。
彼女が二十二歳のとき、バイトをしていた浜松の洋食屋で出逢ったのが父だった。二人はお互いに惹かれ合い、その日のうちに付き合うようになった。
母は生前、父のことが大好きだったと、誰よりも優しい人だったと、星太朗に言い聞かせていた。けれど、お腹に星太朗ができてから別れたことも、正直に話していた。
「どうして?」
幼い星太朗が聞くと、
「どうしてかな。わかんないんだぁ」
母は軽やかに答えた。
「かなしいね」
星太朗がうつむくと、母はその手を握って、おもいきり首を振った。
「お腹にあなたがいたから、哀しくなんかなかった」
にこっと笑ったその顔を、星太朗は忘れない。
きっと、子どもには説明できない何かがあったに違いない。
身ごもったことを知って、父は逃げたとか。もしかしたら、別に女がいたとか、奥さんがいたとか。考えるときりはないし、悪い想像しか生まれない。誰よりも優しい人だったなんて、大嘘かもしれない。
けれど母がそう言ってくれたことに、星太朗は救われていた。
自分に流れている血の半分が、最低な父のものだと聞かされていたら、こんなふうに生きてこられなかっただろう。
シートを立つと、いつのまにか人が増えていた。
毎日見ていた乗り換えの駅名が見えると、今日が最後の出社だったことを思い出す。
ドアが開くと、父のことを車内に置いて、ホームに降りた。
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