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八月になり、蝉が鳴き始めた。
ベランダから見える青々とした木々に、死に物狂いでしがみついている。
動物園での出来事で、壁の花まるは四つになった。
けれどそこからは一向に増える気配はない。
星太朗は女子と塩ビ板以上の関係になることをほとんど諦めていたし、タイムカプセルを掘り起こすミラクルだって思いつかなかった。ただ、ババ抜きの星だけが増える一方で、すでに十八(つまり、ムッシュの九十連勝)にもなっていた。
夏がひと休みしたように暑さが和らいだ朝、星太朗は家を出た。
久しぶりに大好きだった江ノ電に乗ってみる。
古い車輛は昔とほとんど変わりはない。小さい頃はよくシートの上に膝をついて、窓に貼り付いて海を眺めたものだ。
いつからか、そうはできなくなってしまった。
それが大人になるということなのだろうか。
意を決して膝でシートに乗り上げる。隣のおばさんがじろりと見つめてくるが、そんなことは気にならないほど、窓の外は魅力に満ち溢れていた。
普通に座ったままでいるのとは、流れてくる景色が違う。
民家が音を立てて間近にまで駆け寄り、そして、去っていく。草木が手を振り、花が跳びはねる。ぎしぎしと軋む車輛の音は、まるで映画を盛り上げる音楽のようだ。
しばらくすると、青い空と、それよりもっと青い海が一緒に見えてくる。二種類の青が緩やかに混ざり合う景色は息を呑むほどに美しく、星太朗はリュックのチャックを開けて、こっそりムッシュを持ち上げた。
ムッシュはぬいぐるみのふりをしていたが、その目は空と海の青に染まり、キラキラと輝いていた。
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