②コアラと遊ぶ
蛍光灯にむやみに照らされた壁は薄汚れていて、お客たちの賑わいとは対照的に、館内は寂れている。
その壁に溶け込むように並んだ色褪せたベンチに、星太朗はかれこれ二時間近く座っていた。
親子連れはもちろん、色とりどりの帽子をかぶった園児たちや、学校はどうしたと思うような小・中学生らが目の前をとめどなく流れていく。動物園というのは平日でもこんなに人がいるものなのかと、星太朗は静かに驚いていた。
花本さんとの一件は、しばらくの間胸に暗い影を落としていた。
ムッシュが色んな悪ふざけを仕掛けてきたが、何をされても笑えなかった。
けれど、落ち込んでばかりもいられない。
そう思えたのは、やっぱりムッシュの一言だった。
「次は何する?」
そう言われて壁を眺めると、花まるはまだ二つしか付いていなかった。
コアラと遊ぶためにオーストラリアに行こうと提案したが、反対された。
たかだか凧上げをしただけで医者に怒られたのを、ムッシュは見ていたはずだ。けれどそんなことは口に出さない。
「もう空は飛びたくないの!」
それだけ言って、ムッシュは星太朗を外に連れ出した。
バスに揺られて数十分。家から一番近い動物園に、コアラはいた。
でもそれは偶然ではない。
赤ん坊のとき。星太朗はこの動物園で、ただひたすらコアラを凝視していた。
キリンを間近で見上げたときは、きゃっきゃっと喜んだし、ライオンに睨まれたときは、ぎゃーぎゃー泣きわめいた。他の動物を見ても一様にわかりやすいリアクションだったのだが、コアラを見たときだけは違った。
動かないコアラをじっと見つめ、星太朗も同じくらい動かなかった。離れると、うあぁーと泣き出して、近づくとぴたりと静止する。まるで時間が止まったかのように、星太朗はとても静かに、ただひたすらコアラを見つめていた。
星太朗はそんな話を、母から聞いていた。
どうしてコアラを一心不乱に見つめていたのだろうか。
物心ついてからここには何度も来たが、特にコアラが好きということでもなかった。
いつも寝てばかりいるのに、どうしてこんなに人気なんだろう。そう思っていたことは憶えている。
そしてまさに今、まったく同じことを考えていた。
ムッシュに聞いてみようとして、紙袋を覗く。するとムッシュはコアラと同じように、すやすやと寝ていた。
誰のためにここに二時間も座ってるんだよ。
思わず舌打ちをしてしまうと、隣のベンチで絵を描いていた少女と、ちらりと目が合った。
線が細くて色素が薄い、美少女という言葉が似合う女の子だ。
星太朗は愛想笑いを返して、コアラを観察するふりを続ける。
五年生くらいだろうか。画板を肩からさげて、一人で絵を描いている。画板といっても、星太朗が使っていたそれとはまるで違う。現代の画板は真っ白に光るプラスチックでできていた。
小汚いベニヤの方が「ガバン」という響きに似合ってるのになぁ。そんなことを思いながら、寝てばかりいるコアラに目を戻す。
コアラは毒のあるユーカリの葉を食べる。毒素を分解する消化酵素を持っていて、他の動物が口にしないユーカリを独り占めできるらしい。だから必死に餌を探す必要はない。ユーカリに含まれる僅かな水分で喉を潤すので、水も飲まなくていい。のんびりと、一日のうち二十時間を樹上で眠って過ごすのだ。
星太朗はそれを知ったとき、怠け者だと馬鹿にした。するとムッシュは、人間よりずっとかしこいんだぞ、とヒゲを膨らませた。
「ウソだ。人間の方がかしこいに決まってるよ」
星太朗が反論すると、ムッシュはすぐに応戦した。
「そっちの方がウソだよ」
「ほんとだよ。人間は地球で一番頭がいい生き物って、書いてあったもん」
「何の本?」
「えーっと、図鑑にだよ」
「その図鑑は誰が書いたの?」
「誰? 作者は、誰だろ……知らないけど」
星太朗が首を傾げると、ムッシュは馬鹿にするように笑った。
「人間が書いたんでしょ?」
そのときは負け犬の遠吠えだと思った。けれど今こうして、幸せそうに寝ているコアラを見ていると、やっぱりムッシュの言った通りかもしれないと思えてくる。
人間は地球上で一番頭がいいという常識は、ただの自信過剰な思い込みかもしれない。頭なんて、使わないで生きられるならその方がずっと利口なんじゃないだろうか。