やたらと自由で熱い注釈など
—— 前回まで、この『ゲンロン0』という東さんの新著にして集大成について、いろいろお話を伺ってきました。最後は余談として、すこし本論でないお話も聞かせてください。いくつか熱いポイントがあるなと思いまして。
東浩紀(以下、東) なんでしょう。
—— この本をめくって、一番最初におもしろいなと思ったのが、いきなりボルボの広告があるっていう。
東 そうなんですよ。出してくれたんですね。これは友の会パワーです。
—— おお、「ゲンロン友の会」の会員さんとのご縁で!
東 そうなんですよ。
—— 人文書の単著に外車の広告が載るというのは、ふつう考えずらいですよね。深読みしすぎかもしれませんが、「哲学」の名を冠しながら広告が載っているって、まさにこの本にかかれている、「まじめ」なものと「ふまじめ」なものの統合というか、すごい「誤配」です。
東 あははは、いいですね。そういうことにしておきましょう(笑)。
—— そして、この本、注釈がめちゃめちゃ自由ですね。
東 そうなんですよ(笑)。長いんです、今回。全部自分で書きましたからね。
—— わかりやすいだけじゃなくて、妙におもしろいというか(笑)。
東 フッフッフッ。
—— 倫理学者のピーター・シンガーについての注とかやたらと熱かったです。
東 ああ、あそこ熱すぎるでしょう?
—— 数えてみたら2000字近くあって、これはもはや注釈なのだろうか、みたいな(笑)。
東 ズズズッと、もろもろを押しのけて、5ページにわたってますからね(笑)。
ペットが飼い主に似るとはどういうことか
—— そして、これまた本書の中では、「寄り道」と書かれていますが、先のシンガーについて触れた箇所で、犬のお話がありますよね。
東 ええ。犬の話は、個人的にも重要だと思っています。
—— 「現代人は、会ったことのない大叔父よりも、飼っている犬のほうを家族だとみなすかもしれない」から始まって、シンガーの功利主義の主張の要旨を踏まえた上で、その「合理主義的な思考の限界」を指摘しているという。
東 ええ。そもそも西洋の哲学はペットについてほとんど考えることができないと思う。人間中心の思想では、動物への情愛も「人間と似ている」という基準で理解するしかない。
—— なるほど。
東 でも爬虫類やハムスターはじつはなにも人間に似てないですからね。にもかかわらず、飼い主はそこに「表情」を観てとって、家族と見なしたりする。そこに家族の謎がある。そして、人間の新生児は、どちらかというとハムスターに似ている。
—— やっぱり東さんにとって、人間とは何かを考える上で、「動物的な人間」だけでなくて、「動物」そのものが、大きなテーマなんですね。
東 そうです。じつはこれはものすごい初期からですね。西洋の哲学は、魂があるかないか、言葉があるかないかの区別を決定的に重視するんですよね。ところが、動物っていうのは、なんとなく魂があるかもしれないけど、でも十分に魂じゃないよね、みたいな曖昧な存在なんです。ハイデガーはこれを「世界が貧しい」存在だと言ったりするんだけど。
いずれにせよ、そういう中途半端な存在は哲学的思考になじまない。だから哲学者は動物についてあまり語らないんだけど、他方現実には、動物と一緒に暮らして、種を超えて家族のように情愛関係を結ぶってのはよくある。
—— ペットを飼っているようなご家庭では、ごく自然ともいえますね。東さんは犬を飼ったりしているんですか。
東 ぼくは実家が犬を飼ってたんですよね。母親がとくに犬を好きで、ぼくよりも仲良かった(笑)。犬こそ家族と呼ぶにふさわしい存在だったんですよ。だから、犬については昔から考えてるんですよね。
—— そうなんですね。
東 ペットの問題って、じつはすごく哲学的に大事な問題だと思っているんです。
—— たしかに本書でも、「家族」について強制性・偶然性・拡張性の3つの論点を挙げています。ペットはまさに、血も種も越えて、家族として「拡張」されうる存在なわけですものね。
東 ええ。そして、そこには「似てる」とは何か、という深い問題があるわけです。
—— 似てる、は、似てるじゃないんですか?
東 たとえば、ペットが飼い主に似るとはよく言いますけど、よく考えてみてください。犬と人間、そんなに似るはずない。しかも「似てくる」とはどういうことか。
実際には人間は人間で、犬は犬ですよ。骨格からして違う。それなのに、飼い主とペットのほうが、人間同士よりも「近い」気がしてしまうのはなぜか。これは物理的に計測可能な類似性ではないですよ。そもそも「似る」とはなにかということになってくる。
—— ええと、外見だけじゃなくて、雰囲気というか。でも具体的になにか、と問われれば……なんなんでしょうね。昨年、芥川賞を受賞した、本谷有希子さんの小説『異類婚姻譚』はそういうお話でした。
東 そうなんですか。
—— 夫婦が生活を共にするうちにだんだん顔が似てきて、という。
東 似ることに対して、肯定的なんだろうか、否定的なんだろうか?
—— オチは避けますが、その違和感の正体を探ることで物語にしている感じでしょうか。なので、ベースとしてはネガティヴな気がします。
東 そうかあ。でも現実には、人はそんなこと言ってるあいだにも飼ってる犬に似てくる。違和感を抱いてる場合じゃないかもしれないですね。
—— なんだかうれしそうですね(笑)。
東 「似る」というのは、とにかくヤバいことなんですよ。
—— ヤバいですか?
東 たとえば同じ職場にいるだけでも、似てくるわけです。
—— ああ、「ゲンロンっぽい人ですね」「ケイクスっぽい人ですね」みたいな。
東 そう。そしてそれは制御できない。あまりに複雑な判断だからです。人間はそもそも、言葉だけではなく、服装や振る舞いや声の高さ低さや、じつに多様なチャンネルからの情報を組み合わせて相手の人間像を組み立てているわけですね。
「似る」という判断はその総合から生まれていて、じつは人々は、言葉の内容なんかよりもはるかにそっちのほうに敏感で、基本的にそれをもとにコミュニケーションしているわけです。それは、イデオロギーなんかよりもはるかに根幹の部分で、人の行動を決定している。
—— おお、ますます深い感じがしてきました。
東 政治の話にしても、本当は演説の内容なんてだれも聞いていなくて、「あのひと右翼っぽい」とか「あのひと左翼っぽい」という判断でみな動いているわけです。そして、自分になんとなく総合的に似ている候補者を選ぶ。こう言うと否定的に聞こえるかもしれないけど、じつはそれこそがぼくたちの自由を作っているというのが、ヴィトゲンシュタインが家族的類似性という言葉で考えようとしたことなわけです。
—— 確かに何かにつけて「っぽさ」という特徴を抽出することで、人間はいろいろなことをうまくこなしている気がしてきました。
東 憐れみや連帯もこの「ペットへの愛情」と密接に関係している。そういうものについて、もう少し哲学は考えねばいけないと思いますね。
ディズニーワールドに行く途中で
—— 他にも各所におもしろい話、勉強になる話がいっぱいありました。ちなみに本書のようなスケールの大きな構想は、いつ思いついたんですか。
東 いつ、ですか?
—— ええ。これだけいくつもピースがある大きな絵をどんな風にひらめくのかなと。
東 ああ、この本の構成自体を思いついたのは、3年ぐらい前、2014年じゃないかな……、うん、2014年です。2014年に、フロリダのディズニーワールドに行ってるんですよ、家族で。その時です。
—— え、観光旅行中に?
東 往復の飛行機のなかで、すべての目次を作りました。
—— そんな(笑)。
東 いや、ほんとにそうなんです。夏休み明けに、社内会議で目次を披露したのも覚えている。
—— いやあ、想像しがたいです。
東 むろん、細部は決まってなかったんだけど、全体の構成、つまり、ヴォルテールがあって、カントがあって、シュミットがあって、コジェーヴとアーレントがあって、そのあと郵便的マルチチュードがあって、ローティがあってという順序は、ほとんどそのときに決まって、完成形もそのとおりになっている。
ただ、その時点だと、ローティのあとにクリプキの話や「贈与」の話をするはずだったのだけど、それは体力的にできなかった。後半の第二部についても、フィリップ・K・ディックとドストエフスキーについて語るというのは決まっていた。
—— これ、つながるぞと。
東 それぞれがつながるのは、もっと昔からわかってたんですけどね。
—— うーん、そんな壮大なパズルが家族旅行の移動中にできるもんなんですね。
東 そもそも本書は『ゲンロン0』なので、ほんとは『ゲンロン1』(2015)より先に出版されなければいけなかったわけです。なので、その頃からいろいろ考えてはいた。
—— じゃあ、足掛け3年ですか。長かったですね。
東 長かったですね。ただ、これを書きおろすためには、もうひとつ、いまの読者が求めていることについて、いろいろ振り切らなければいけなかった。現時点の完成形の原稿を書き始めたのは、結局昨年秋だから、その覚悟を決めるのに2年以上かかっちゃった感じですね。
—— 振り切る、ですか?
東 ええ。最初にも少し話しましたけど、この本に関して、いくらでも批判は思い浮かぶんですよ。
学術的には荒っぽい議論で穴だらけだとか、結局、政治運動にコミットしたくない知識人の言い訳にすぎないとか、ポストモダンのニューアカのバブルの頃の浮かれみたいなものをもう一度復活させようと思って空回りしてるだけだとか。それこそ手に取るように。
—— そうなんですね。
東 もちろん、真剣に読んでくれれば、この本がそういう本ではないとわかってくれると信じています。でも、同時に、この10年ほどの経験で、そんな読者は今ほとんどいないこともわかってしまっている。だから、そういう「まともな読者がほとんどいない世界」に対して、いちど心の底から絶望し、現実を振り切らないと、この本は書けなかった。
—— なるほど。
東 いまの現実に対応しようと思ったら、こんな本は書けない。そういう意味で、ぼくが自分の会社でこれを出版したのは必然で、ふつうの出版社で、もし編集者が一人でもはさまっていたらもうこの本は書けなかったと思います。その人の望みを考えてしまうから。
—— 確かに東さんは、いつも目の前の人たちにその言葉が届いているかを確かめながら話される気がします。逆に難解な言葉で話したり、楽屋話をするのが耐えられないという印象です。
東 ええ、それは僕の性分なんですよね。
—— きっとトークショーがとてもお上手なのも、その特性の恩恵なのだと思いますが。
東 そういう点では、この本には観客が誰もいないんです。ぼくしかいない世界で書いてる。だから書けた。
—— ぼくしかいない世界、ですか。
東 そう。言うならば、18歳のぼくだけに向けて書いたような本です。
今も覚えている十代で受けた衝撃
—— 「18歳の自分」に向けて? それはどういうことですか?
東 すこし個人的な話になりますが、ぼくが18歳の頃、柄谷行人の文章に出会ったんです。17歳かもしれないですが。
※柄谷行人:1941年生まれ。東京大学経済学部卒業、同大学大学院英文学修士課程修了。漱石論「意識と自然」で群像新人文学賞受賞。法政大学教授、近畿大学教授、コロンビア大学客員教授など歴任。また、批評誌「季刊思潮」「批評空間」を創刊 。
—— そうなんですね。
東 さらに正確に言えば、本当に最初に出会ったのは河合塾の模試です。そのときぼくはまだ、高校1年で16歳だった。模試のなかに、『内省と遡行』が出てきた。
—— 現代文の模試ですかね。
東 ええ。そしてかっこいいなあと思ったわけです(笑)。
—— おお。
東 それで一年後ぐらいに、友だちに勧められて『内省と遡行』を買って、ああこれだ! この文章だ!と気づいたわけです。その後ろにあるのが、ぼくが高校生のとき買った『内省と遡行』だと思いますよ。
(インタビュアー背後の本棚から本を取る)
—— おお、これですか。わ、赤線がいっぱいひいてある(笑)。
東 それですそれです。(奥付を見ながら)1988年だから、やはりそうですね。これを高校生の時に読んで、「おお、なんかすごい!」と。神的な何かを感じると思ったわけです(笑)。
—— つまり、青年・東浩紀は激しく衝撃をうけたと。
東 ええ。今でもその衝撃は覚えてます。
—— 当時、自分が受けた衝撃と同じようなレベルのものを書きたいと。
東 そうです。いま高校生のぼくみたいなひとが読んで、同じように感じてくれたらなと。
—— いい話ですね……。
18歳と45歳を統合するスケール
東 そういう意味でも、今回のポイントはいまだかつてなく「自分が満足してる」ってことですね(笑)。
—— いまだかつてないんですか。
東 ない。まったくない! もうレベルが違います。
—— 『存在論的、郵便的』(1998)のときは?
東 まったく満足してない。
—— そうなんですか。27歳にしてサントリー文芸賞を受賞し、それこそ柄谷さんや浅田彰さんらから、賞賛を得た華々しいデビュー作ですよね。「世界を変えるかも!」というぐらいの満足感がありそうですが。
東 むしろあのときは不満だらけでした。アイデンティティが分裂している感じがあったんです。当時、ぼくはすでにサブカル評論みたいなものもやっていたし、ネットも好きだった。だから、「現代思想オタク」みたいな読者ががんがんフォローしてくれたものの、ぼく自身としては「べつに現代思想だけが好きなわけじゃないしな……」と。
—— 「それだけじゃないしな」と。
東 ええ。でも今回の本はそこらへんが完全に統合されているので。
—— おお。それはもしかして、「18歳のときの夢見る東浩紀」と……
東 そう。「45歳の現実にまみれた東浩紀」が統合されているわけです。長いあいだ分裂していたものがついに統合することになった(笑)。
—— 10代で大きな理想を夢見て、しかし、世界中の現実を何周も観光した上で、こういうスケールで世界を読み解く新しい思想が生まれたわけですね。
東 まあ、かっこよく言えばね。でも、いろいろお話しましたが、日本でこそ大きい話は好まれなくなりましたが、世界的にはいろんな思想が生まれているんですよ。
—— そうなんですか。
東 たとえば、昨年は日本でもメイヤスーの『有限性の後で: 偶然性の必然性についての試論』とかが翻訳され、話題になりましたね。あと、英語圏の思想の流行語としては、「人新世」って書いて「アントロポロセン(Anthropocene)」という言葉があって。
—— へえ、「じんしんせい」ですか。調べますと、ノーベル化学賞受賞のドイツ人大気化学者、パウル・クルッツェンによって提案された造語とあります。
東 そうですね。地質の「沖積世」とか「更新世」とかと同じで、人類が産業革命以降、地球全体の生態系や気候に大きな影響を及ぼして、そういう新しい地質時代が生まれているのだと。で、哲学でも、そういう観点から人間や文明について考えてみようみたいな議論が出てるんですよ。
—— それはスケールがでかそうです。
東 そうなんです。世界的に見れば、まだまだそういう大きな話があるんですよね。ぼく自身は発表は日本語でしかしていませんが、読者としてはそういう仕事を横目で見ながらやっていきたいなと思っています。
—— 今日はお話ありがとうございます。これからも東さんがどこへ行くのか、楽しみにしています。
聞き手・構成:中島洋一