一故人

ウーゴ・チャベス、山口昌男、二川幸夫—2013年3月の物故者

2013年3月に亡くなったベネズエラのウーゴ・チャベス大統領、八面六臂の活躍を知のフィールドで繰り広げた文化人類学者の山口昌男、そして国際的に知られる写真家・二川(ふたがわ)幸夫について、ライターの近藤正高さんが記します。それぞれ個性豊かな3人を想うきっかけにもなるのではないでしょうか。

野球選手が夢だった「独裁者」—ウーゴ・チャベス(2013年3月5日没、58歳)

2013年のWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)では、第1ラウンドで敗退した南アメリカのベネズエラだが、野球は昔から盛んで、アメリカのMLBにも優秀な選手を多数送り出している。2012年シーズン、MLBでは45年ぶりの三冠王となった強打者ミゲル・カブレラ(デトロイト・タイガース)もそのひとり。カブレラは三冠王を獲得した際、母国の大統領ウーゴ・チャベスから、ツイッターを通じて「ブラボー、ミゲル!ブラボー、ベネズエラ!」と祝福の言葉を贈られた。

チャベス自身、少年時代は野球選手になりたいと思っていた。同じ名前を持つイサイアス・チャベスというMLBの投手に憧れ、1969年に彼が飛行機事故で急死したときには、悲しみにくれるとともに、ますます野球選手への夢を募らせた。1971年、17歳で故郷の西部バリナス州サバネタを離れ、首都カラカスの陸軍士官学校に入学したのも、いい野球のコーチがいると聞いていたからだ。当初は士官学校で1年間学んだのち退学して、野球に専念するつもりだった。貧しい家庭に育ったチャベスにとって、野球こそ成功への一番の近道だと思われたのだ。

だが、軍隊生活は思った以上に水に合った。軍事訓練に励む一方で、西欧列強によるラテンアメリカへの弾圧の歴史を学び、それに対し敢然と立ち向かった19世紀の革命家シモン・ボリバルなどの英雄たちに自分も続かなければならないと考えるようになる。1982年には軍内の秘密政治組織「ボリバル主義革命運動(MBR-200)」に参加し、ひそかに決起の時機をうかがった。

もっとも、チャベスが育った時代のベネズエラは、ラテンアメリカ諸国のなかでは例外的に、政情は安定していた。これというのも、1958年と早い時期に軍事独裁体制が終わり、民政への移管にともない主要政党間で結ばれた「プントフィホ協定」にもとづき二大政党制がまがりにも機能していたためだ。それでも、「プントフィホ体制」と呼ばれるこの体制にもしだいにほころびが生じるようになる。

プントフィホ体制では、過去の軍事独裁への反省から、保守派の反動化を防ぐべく急進的な政策が避けられ、また共産党などの左派勢力、軍人の政治参加も認められなかった。他方、同体制下のベネズエラ経済は、国内から潤沢に産出される原油の輸出によって支えられ、その収入が公共投資や社会政策(教育・医療など)をはじめ様々な形で国民に分配されてきた。だが、石油に大きく依存した経済構造は、工業や農業など石油以外の産業の停滞・衰退を招き、貧富の差が広がった。また排他的な政治体制は、ごく一部の政治家・官僚・財界人への権力や富の集中をもたらしたうえ、癒着や汚職もはびこり、国民の既存政党への不信が強まっていく。

決定的だったのは1980年代に入り、世界的に原油価格が大幅に下落したため(いわゆる「逆オイルショック」)、財政が悪化したことだ。失業率が急上昇するなど、国民生活は大打撃を受ける。そこへ来て1989年、ときのペレス大統領は、1970年代に自らの手で国有化した石油産業をふたたび民営化したほか、公共料金の値上げ、付加価値税の導入、各種補助金の削減など新自由主義的な財政改革を断行、これによって国民の不満は爆発、同年にはカラカスで暴動が起こった。

チャベスが歴史の表舞台に登場したのも、こうした流れに乗ってである。1992年2月4日、ペレス政権を打倒するべく、彼はMBR-200の同志たちを率いてクーデターを起こしたものの、失敗に終わる。しかしそれは国民に対しチャベスが鮮烈な印象を与えるに十分だった。このとき彼は、テレビを通じて(生放送ではなかったが、録画したテープが無編集で放映された)、潔く敗北を認め、同志たちに武装解除を求めた。

このときチャベスは、「同志諸君、不運にも、いまのところは、われわれ自身が設定した目標を首都において達成することができなかった」と、さりげなく捲土重来の意向を示し、また「私は、君たち(=同志)の忠誠と勇気そして無私の精神を称え、祖国と諸君の前で、このボリバル的軍事血気の責任を一人で負うものである」と、自らすべての結果責任を負うことを明言した。そのおかげで、無責任な政党政治家に辟易していた国民の目には、チャベスが「真摯な軍人」に映り、変革者として期待を集めることになるのだった。

もちろん、クーデターののちチャベスはその首謀者として逮捕された。しかし収監中の彼は、マスコミへの対応に余念がなかった。刑務所では2時間おきに公衆電話が使えたが、ほかの同志が家族と話していたのに対し、チャベスは30分から1時間もかけてマスコミに宣言文を送っていたという。おかげで、しばらくして電話をかけることが禁止されてしまう。

その後、特赦により釈放され、1997年には政治組織「第五共和国運動(MVR)」を結成し、翌年の大統領選挙に出馬する。このときにはもうクーデターでの印象も薄れつつあり、ほとんど注目されていなかったものの、有力候補たちは既存政党が支持に回ったことから不評を買い、結果、チャベスが大勝を収め初当選を果たした。

大統領になってからも、チャベスはテレビに好んで出演した。国営放送では冠番組を持ち、国民と積極的に対話した。ときには7時間35分にもわたって出演し続けたこともあった。こうした過剰なメディア露出の甲斐あって、彼はベネズエラ国民からもっとも愛され、そして嫌われる大統領となった。しかし彼はなぜ、メディアをほぼ私物化してまで国民の前に露出を続けたのだろうか。どうもそれは彼の性格にも由来するものらしい。チャベスの友人の心理カウンセラーは、次のように彼の性格を分析している。

《チャベスは愛されようとする。もし愛されなければ、控えめになっていく。誉められていたいのは、ナルシズムの一種だ。認められたいという認知願望がある。その意味では謙虚ではない。傲慢である。彼は聞いてもらい、注目され、称賛され、さらに偶像化までされたいのだ》(C.マルカーノ、A.B.ティスカ『大統領チャベス』

チャベスは、大統領就任直後より世界中を回り、旺盛な首脳外交を展開したが、そのなかで過剰な対応をして相手を動揺させることもしばしだった。たとえば、1999年10月の初来日時、皇居に参内した際には、去り際にいきなり天皇を強く抱きしめ、侍従たちを縮み上がらせている。本人いわく、天皇の笑顔を見て、それに対し態度で示そうとしたというのだが、さすがにやりすぎである。が、これもまた愛されようという表現であったのだろう。

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近藤正高

ライターの近藤正高さんが、鬼籍に入られた方を取り上げ、その業績、人柄、そして知られざるエピソードなどを綴る連載です。故人の足跡を知る一助として、じっくりお読みいただければ幸いです。

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コメント

kanbakanba 山口昌男の本は学生時代によく読んでいた。だから、山口と猪瀬直樹のかかわりは対談本(『ミカドと世紀末』)もあるので知っていたけど、安倍晋太郎(と安倍晋三)のつながりは、近藤正高さんの文章で初めて知ったな。面白いわ。 https://t.co/hkvJbYC2l9 約5年前 replyretweetfavorite

naohikohino @TakeshiYAMAGISH http://t.co/DpekfcXngn 約5年前 replyretweetfavorite

donkou 昨日更新された拙連載、これから1時間ほど無料でお読みいただけます。よろしくお願いします。/ 【03/30 18:57まで無料】 約5年前 replyretweetfavorite

sadaaki うお、山口昌男さん、なくなったのか。このまとめ、はんぱないです。 約5年前 replyretweetfavorite