コアラのマーチを死ぬほど食べる方法

星太朗に気づかれないように、段ボールに詰められた何かを大量に購入し、企んでいるコアラのぬいぐるみ・ムッシュ。彼の小さい体ではとうていできないことだが、頭を使って、宅配業者に家の中まで段ボールを運ばせることに成功する。ムッシュは星太朗の願いを叶えるため、これから始まる大仕事に向けて気合を入れなおしていた。
ぬいぐるみと出版社校正男子の切なさMAXの友情物語小説『さよなら、ムッシュ』を特別先行掲載!
イラストは、なんと松本大洋さんの描きおろし!

 次の週、星太朗は緊張の面持ちでトイレに立っていた。

 くすんだ水色のタイルを眺めながら、個室が開くのを待つ。

 でもそれは用を足すためではない。大事なものを社長に渡すためだ。

 カラカラと紙を回す音がしてから、水の音が響き渡る。ドアが開くと、社長は「おぉ」と声を上げた。

「ちょい待ち」

 社長は個室に戻って消臭スプレーを振りまく。

「悪いね、臭うでしょ、この歳になるとどうもね」

 笑顔も振りまく社長に、星太朗は封筒を差し出した。

「あの、これ……」

「は?」

 社長がそれを開くと、そこには『辞表』と書かれていた。

「え?」

「すみません……」

 星太朗は社長の顔を見ずに、頭を下げた。

「え、何言ってんの。なんで、ど、どうして」

「病気なんです……。母と同じ」

「え、え……? いや、ちょ、ちょっと、冗談やめてよ」

 星太朗が顔を上げると、社長の顔は強ばっていた。

 社長は母の担当編集者として、全ての小説を出版した。まだ素人だった母の才能に目をつけて、それを開花させたのが三十年前。それから母が亡くなるまでずっと、苦楽を共にしてきたらしい。

「星(せい)ちゃんが赤ん坊のとき、おむつを換えてやったんだからなぁ。星ちゃんのうんこ、臭くてなぁ」

 社長は事あるごとにそんな話をしてきた。当然星太朗は憶えていないが、社長の顔はしっかり憶えていた。母が亡くなった夜に、誰よりも大声で泣きじゃくっていたからだ。

 それから十五年後、就活中にばったり再会すると、すぐにろば書林に誘ってくれたのだった。

 診断書を渡すと、社長はそれを見て言葉を失った。

「社長には、母のときから、ほんとうにお世話になりました……。ほんとうに、感謝してます」

 星太朗は社長の目を見て話した。人の目を見て話すのは苦手だったが、お礼だけはしっかり伝えようと心に決めていた。

 社長は、まだ返す言葉を見つけられないでいる。

「あの、それから、このこと、みんなには内緒にしてほしいんです」

「いや……でも……」

 そう返すのが精一杯な社長に、星太朗はお願いします、と頭を下げ、個室へ入った。

 便座に座って目を閉じるが、社長が出て行く音は聞こえてこない。

 しんと静まり返った空気が、社長の気持ちを代弁しているようだった。

 チャイムが鳴り、ムッシュは廊下へ飛び出した。

「お荷物でーす」

 男の声が聞こえたので、鍵のツマミに貼っておいた紐に掴まって、全体重をかける。カチっと鍵が開くと、廊下の真ん中に座り込んだ。

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さよなら、ムッシュ

片岡翔

あの日。気がついたら、その子は話しはじめていた。コアラのぬいぐるみのはずなのに。 それ以来、彼はそのことを20年間秘密にして、生きてきた――。 気鋭の新人映画監督・片岡翔が初めて小説『さよ...もっと読む

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marekingu #スマートニュース 3年以上前 replyretweetfavorite