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「やっぱ無理」
星太朗はマジックを置いた。
「大丈夫だって」
「いや、でも……」
星太朗がうつむくと、ムッシュはマジックをその手に握らせる。
「ねぇ、もう失うものなんてないんだよ?」
ムッシュを見ると、いつになく真剣な顔だ。
星太朗は覚悟を決めると、ごくりと唾を飲みこんだ。
そして、恐る恐る、壁に太いマジックを走らせた。
①小説を書く
ソファの正面、本棚の上の白い壁。その一番目立つ場所に、真っ黒な字が猛々しく光る。
「どう? 気持ちいい?」
ムッシュが顔を覗かせる。
星太朗は今まで味わったことのない感情に戸惑っていたが、そう言われると、この感情が「気持ちいい」に似ている気がしてくる。
「うん……なんかすごい、悪いことしてる気分」
答えながら、少しだけ自分の口角が上がっているのがわかる。
ムッシュはそれを見て、「ぼくも!」とマジックを奪い、本棚にのぼった。
②コアラと遊ぶ
ムッシュは①の下に、自分の顔よりも大きな字を書いた。
「うわー、めっちゃ悪いことしてるね」
はしゃぎながらマジックをぶんぶんと振り回す。
「悪いことしてるのに、どうして気持ちいいんだろう」
星太朗はぼそりと疑問を口にした。
二十七年生きてきて、悪いと思うことをしたことがなかった。
だからといって自分が良い子だと思ったことはない。悪いことをすれば回り回って自分に返ってくると思っていただけだ。
それを教えてくれたのは母でもムッシュでもない。それは今でも本棚の奥に並んでいる、のび太くんとドラえもんだ。
「うーん、そう言われたら、どうしてだろう」
ムッシュが腕を組んで考え込む。
「珍しいね、すぐ答えが出ないなんて」
星太朗が言うと、
「ひさしぶりだから鈍っちゃったのかも」
ムッシュはバトンのようにマジックを渡した。
それから二人は順番に、壁に大きな字を書いていった。
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