夕暮になると、山際に一つの星が
湯殿に走りこんで温泉に飛び込み、温かい濡手拭を顔にあてると、初めて冷たい星が頬から落ちた。
「お寒くなりました。とうとうお正月もこちらでなさいますか。」
見ると、宿へ来るので顔馴染の鳥屋だった。
「いいえ、南へ山を越えようかと思っています。」
「南は結構ですな。私共も三四年前まで
若い妻は胸を夫にあてがうように突き出して、夫の頭を見ていた。小さい胸には小さい乳房が白い盃のように貧しく膨らんでいて、病気のためにいつまでも少女の体でいるらしい彼女の幼い清らかさのしるしであった。この柔かい草の茎のような体は、その上に支えた美しい顔を一層花のように感じさせていた。
「お客様、山南へおいでになるのは初めてですか。」
「いいえ、五六年前に行ったことがあります。」
「さようですか。」
鳥屋は片手で妻の肩を抱きながら、石鹸の泡を胸から流してやっていた。
「峠の茶店に中風の爺さんがいましたね。今でもいますかしら。」
彼は悪いことを言ったと思った。鳥屋の妻も手足が不自由らしいのだ。
「茶店の爺さんと?——誰のことだろう。」
鳥屋は彼の方を振り向いた。妻が何気なく言った。
「あのお爺さんは、もう三四年前になくなりました。」
「へえ、そうでしたか。」と、彼は初めて妻の顔をまともに見た。そして、はっと目を反らせると同時に手拭で顔を蔽うた。
(あの少女だ。)
彼は夕暮の湯気の中に身を隠したかった。良心が裸を恥かしがった。五六年前の旅に山南で傷つけた少女なのだ。その少女のために五六年の間良心が痛み続けていたのだ。しかし感情は遠い夢を見続けていたのだ。それにしても、湯の中で会わせるのは余りに残酷な偶然ではないか。彼は息苦しくなって手拭を顔から離した。
鳥屋はもう彼なんかを相手にせずに、湯から上って妻のうしろへ廻った。
「さあ、一ぺん沈め」
妻は尖った両肘をこころもち開いた。鳥屋が脇の下から軽々と抱き上げた。彼女は賢い猫のように手足を縮めた。彼女の沈む波が彼の頤をちろちろと舐めた。
そこへ鳥屋が飛び込んで、少し禿げ上った頭に騒がしく湯を浴び始めた。彼がそっとうかがってみると彼女は熱い湯が体に沁みるのか、二つの眉を引き寄せながら固く眼をつぶっていた。少女の時分にも彼を驚かせた豊かな髪が、重過ぎる装飾品のように形を毀して傾いていた。
泳いで廻れる程の広い湯槽なので、一隅に沈んでいる彼が誰であるかを、彼女は気がつかないでいるらしかった。彼は祈るように彼女の許しを求めていた。彼女が病気になったのも、彼の罪かもしれないのである。白い悲しみのような彼女の体が、彼のためにこうまで不幸になったと、眼の前で語っているのである。
鳥屋が手足の不自由な若い妻をこの世になく愛撫していることは、この温泉の評判になっていた。毎日四十男が妻を負ぶって湯に通っていても、妻の病身ゆえに一個の詩として誰も心よく眺めているのだった。しかし、大抵は村の共同湯にはいって宿の湯へは来ないので、その妻があの少女であるとは、彼は知るはずもなかったのだった。
湯槽に彼がいることなぞを忘れてしまったかのように、間もなく鳥屋は自分が先きに湯を出て、妻の着物を湯殿の階段に拡げていた。肌着から羽織まで袖を通して重ねてしまうと、湯の中から妻を抱き上げてやった。うしろ向きに抱かれて、彼女はやはり賢い猫のように手足を縮めていた。円い膝頭が指環の蛋白石のようだった。階段の着物の上に腰掛けさせて、彼女の顎を中指一本で持ち上げて喉を拭いてやったり、櫛でおくれ毛を掻き上げてやったりしていた。それから、裸の蕊を花弁で包むように、すっぽりと着物でくるんでやった。
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