電車を待つ人を幸せな気持ちにしたポスター
オランダに「ブラック・ベア」というペーパーバックのシリーズがあった。創刊は1955年。ちょうどオランダでは鉄道網が急速に発展していた時代であり、同シリーズからは推理小説を中心に電車内で気軽に読める作品が続々と刊行され、ベストセラーとなった。
ブラック・ベアは、販売ルートも一般の書店ではなく、駅構内の売店に絞っていた。その宣伝のため、創刊の翌年、1956年からは駅のホームなどにポスターも掲示されるようになる。そこには、シリーズ名にあわせて黒いクマの絵が描かれていた。クマの目は真っ赤で(ポスターのデザイナーは「徹夜で本を読んでいたから」と説明した)、インパクトは大だ。それは、慌ただしく駆けていく通勤客の目にも、一目で印象づけるための工夫だった。それでいてクマは親しみやすく、人々の心をなごますものとなっていた。
あるとき、そのポスターのデザイナーのもとに手紙が届く。それは駅で電車に乗り遅れたという男性からのもので、ホームに貼られたブラック・ベアのポスターを眺めていたおかげで、次の電車を待つのが苦痛などころか、幸せな時間をすごせたと書かれていた。デザイナーもそれを読んで幸せな気持ちになったという(芸術新潮編集部編『ディック・ブルーナのデザイン』)。
さて、ブラック・ベアのシリーズは、A.W.ブルーナ&ズーン社という出版社から刊行されていた。このシリーズで本やポスターのデザインを一手に担ったのが、ヘンドリック・マフダレヌス・ブルーナである。彼は、同社の3代目社長アルバート・ウィレム・ブルーナの長男だった。
ヘンドリックは1951年にブルーナ社に入社し、専属デザイナーとなった。ブラック・ベアの創刊以降は、多いときには年間150冊ものデザインを手がけ、多忙をきわめる。もともと画家志望だった彼は、本業のかたわら、1953年に『りんごぼうや』という絵本を出版。さらにブラック・ベアが創刊された1955年には、「ナインチェ」というウサギの女の子を主人公に、絵本『ちいさなうさこちゃん』『うさこちゃんとどうぶつえん』を刊行した。これら絵本でヘンドリックが用いたペンネームこそ、ディック・ブルーナ(2017年2月16日没、89歳)だ。「ディック」とは、彼が少年時代より家族に呼ばれていた愛称だった。
オランダ語で「小さなうさちゃん」を意味するナインチェは、後年、英語版では「ミッフィー」、日本語版では「うさこちゃん」という名になり、世界中の子供たちの心をつかむことになる。ここまで人気を集めたのはなぜなのか。彼の足跡をたどりながら、探ってみよう。
地下生活のなかでの愉しみ
ディック・ブルーナは1927年8月、オランダのユトレヒトに生まれた。絵を描くのは幼いころから好きだったという。少年時代にはまた、読書や音楽にも親しんだ。先述のとおり父は出版社の社長だっただけに、画家や作家などが自宅を訪ねてくることも多く、ごく自然に、本や芸術への関心が育っていったようだ。
中学時代には、父の書棚にあった画集に興味を持つようになり、レンブラントやゴッホなどの作品に心を奪われる。それ以前より、「何でもいいから、毎日ひとつ絵を描こう」と決心して実行していた。
第二次世界大戦でナチスドイツがオランダを占領したのは1940年である。ブルーナ家は占領後に地方に疎開し、ディックが16歳になった43年には、より安全な場所を求めて、ローズドレヒト湖畔のブルーケラーフェーンに移り、地下生活に入った。このころナチスは、オランダから生産手段も労働力も根こそぎ吸い上げる目的で、人々を強制労働に駆り出していた。一家が地下に潜ったのは、ディックの父にもその恐れがあったためだ。
ちなみにドイツから大戦前にオランダに移住したユダヤ人少女、アンネ・フランクはディック・ブルーナより2歳下だ。『アンネの日記』を通じて、ナチス侵攻後のオランダ国内でのユダヤ人迫害はよく知られる。ディックもまた、ユダヤ人がナチスに追われ、湖を泳いで逃げていくのを目撃したことがあったという。
食糧や燃料に事欠く厳しい地下生活で、ディックは、アコーディオンで作曲したり、タイプライターで小説を書いたり、そして絵を描くことで戦争のことを一時忘れた。ローイという父の出版社のデザイナーから初めて絵のレッスンを受けたのもこの時期である。
1945年5月にナチスの敗北によりヨーロッパでの戦争が終わったとき、ディックは目の前がパッと開けて、じっとしてはいられなかった。彼のなかには《もう、もとの学校生活にはもどれない! もっと大切な、やるべきことをやらなければいけない。前へ進まなくちゃ!》という強い気持ちが芽生えていたという(ディック・ブルーナ『ミッフィーからの贈り物』)。
戦争を経てアーティストになりたいとの思いをふくらませていったディック。しかしその前に立ちふさがったのが父アルバートであった。
父親との長い対立
ディックの曽祖父が創業したブルーナ社は、祖父、父と継承されてきた。それだけに父親は長男である彼に会社を継がせたがったという。ディックはこれに、自分は経営に向いていないと頑なに抵抗し続ける。
戦争が終わって復学した普通科高校も、彼には窮屈でたまらなかった。何度もやめたいと訴えるディックに、とうとう父は根負けして、「会社の後継者として研修してくれるのならば」との条件つきで中退を認めた。
こうしてディックは、ユトレヒトの書店で研修し、さらに1946年にはロンドン、翌47年にはパリで1年ずつ研修生活を送った。しかし研修のあいまに、美術館や画廊をめぐり、自分でも絵を描き続け、しかも同じ志を持つ人たちをたくさん目にするうち、やはり絵を描いて生きていきたいとの思いを強くする。パリの美術館で見たなかでは、フェルナン・レジェやアンリ・マティスら現代の画家の作品に大きな衝撃を受けた。
帰国すると父とのあいだで対立が再燃する。画家になりたいとの思いをますます募らせたディックと、そんなもので生活がなりたつわけがないという父に、2代目社長の祖父まで巻きこんでの大騒動になった。ここでとりなしてくれたのが母親だった。そのおかげで、父と祖父をどうにか納得させた彼は、その後2~3年、純粋にアーティストとしての方向を探るための時間を得る。
本格的に絵を学ぶため、アムステルダムの国立芸術アカデミーに入学。しかし、ここでの授業が、自分のめざすものとは違うと気づくや、中退する。ただ、のちにオランダのデザイン界を牽引していくことになる若きアーティストたちと学校で出会えたのは収獲だった。
暗中模索の時期にあって手を差し伸べたのは、意外にも父だった。新たな本のデザインを求めていた父は、息子にその仕事を少しやってみないかと持ちかけたのだ。ディックは絵の勉強のさまたげにならない程度で協力することを約束する。
このあと、けっきょく彼は、父の会社に先述のとおり専属デザイナーとして入社する。これというのも、当時プロポーズしていたのちの夫人の父親から、「娘と結婚したいのなら、ちゃんとした職業に就いてもらわなければ困る」と言われたのがきっかけだった。こうして彼は1951年に就職とともに婚約、その2年後、ちょうど処女作『りんごぼうや』の刊行した年に結婚する。
こうして父たちとの関係は丸く収まったかのように思われたが、その後も、売れるためのデザインを求める父とのあいだで衝突を繰り返した。祖父にいたっては、ディックが40歳をすぎたころ、すでに絵本作家として軌道に乗っていたにもかかわらず、「おまえはいつになったら、まともに仕事を始めるつもりなのか」と小言をいったという(森本俊司『ディック・ブルーナ』)。
それでも彼は1975年、48歳になるまでブルーナ社に勤め(71年には専属デザイナーを退く)、総計で2000冊におよぶ本のデザインを手がけた。もともと神学書専門の小さな出版社だった同社が発展したのには、3代目社長の父の才覚はもとより、ディックの貢献にも少なからぬものがあったはずだ。
時代を追うごとに変化し続けたミッフィー
冒頭にあげたブラック・ベアのポスターを手がけるにあたり、ディック・ブルーナの頭にあったのは、「ポスターは一発のパンチでなくてはならない」というフランスのポスター・デザイナー、カッサンドルの言葉だった。だが、彼はそれだけでは何かが足りないとも感じ、試行錯誤の末に、親しみやすいブラック・ベアのキャラクターをつくりあげる。当初、ポスターにはブラック・ベアの絵とともにさまざまなキャッチコピーがつけられていたが、数年後にはそれが不要になり、イラストだけで本の宣伝になるほど、ブラック・ベアは認知されるにいたった。
デザイナーの仕事にブルーナは没頭した。面白いと感じた風景や静物は、手当りしだいにスケッチしたり、写真に収めて保存したりしてアイデア源とした。そのうちに《美しく描くために比率にこだわったり、遠近法を用いたり、陰影をつけるというような画法には、すっかり関心をなくしてい》たという。
《最小限の線で明快に描くことが大切でした。必要がないものをギリギリまで削り、いかにも簡単に見える線だけで、その対象がもつ本質をきっちりと描きだそうとしたのです》(前掲、『ミッフィーからの贈り物』)
それは目標としたマティス作品の「研ぎ澄まされたシンプル」に近づく道でもあった。とくにブラック・ベアのポスターには、「シンプルな形、そして明快な色、どこか親しみがもてるキャラクター性」という、のちにブルーナが確立する表現のエッセンスが詰まっていた。
同時期に制作を始めた絵本においても、シンプルさは究められた。ミッフィーの絵本は、夏に家族で海辺のリゾートに出かけたときの、まだ幼かった長男とのやりとりから生まれた。そこには野ウサギがよく出没し、これにすっかり喜んだ長男は、ブルーナに毎晩、ウサギの話をしてとせがんだという。そこでつくった即興の話が、絵本のもとになった。
最初のミッフィーは、全体的にずんぐりとしており、顔は斜め横を向き、長い耳も逆八の字に広がってどこか不安定なスタイルだった。それをブルーナは、1963年に8年ぶりにミッフィーの絵本を出すにあたり、よりグラフィック的なものに描き直す。具体的には、線を整え、その顔も、子供たちの正直な目に応えようと、常にまっすぐ正面を向いた姿に変えたのだ(前掲、『ミッフィーからの贈り物』)。こうして、いまのミッフィーができあがった。
その後もミッフィーは少しずつ変化し続けた。ただし、これについてブルーナ本人は意図して変えていったわけではないとも語っている。
《確かにはじめの頃のミッフィーは、頭が大きい。人間の子どもが、身体に対して頭のバランスが小さくなるにつれ人格ができていくように、ミッフィーの頭も小さくなっていきました。でもわざとそうしたわけではありませんが。数年前展覧会で、作品を並べて見て、形が少しずつ変わっていると気づいたくらいです。だんだん耳が丸くなって、身体もふっくらしてきていますね》(『MOE』2015年5月号)
読者から「ミッフィーを描くコツを教えてください」と訊かれることもしばしだったが、これに対し、ブルーナは「私もミッフィーを上手く描けない」と告白している。というのも、ミッフィーを描くときはいつも、自分のイメージに合致するまで何度となく描き直していたからだ。