岡林信康が、プロテスト・フォークソングの象徴である。
極論すれば〝反体制型フォークソング〟は彼一人に象徴されていると言っていいだろう。(あと、絞って付け加えるなら、高田渡、五つの赤い風船(西岡たかし)、加川良。もちろん他にもたくさんいるのだが、当時、とてもよく聞かれていたのはこのあたりだとおもう)。
〝関西フォーク〟と呼ばれていたように、関西エリアの歌手が多く、彼らが先頭に立って時代を走り出したのだ。
〝関西フォーク〟はきわめて土俗的である。
カレッジ・フォークはアメリカのコーラスグループの模倣であり、グループサウンズはイギリス音楽(リバプール・サウンド)を追ったものだった。1960年代半ばは、それがかっこよかった。関西フォークはそれに反旗を翻した。かっこ悪くても自分の言葉で歌おうと呼びかけた。かっこいいはかっこ悪いんじゃないか、と問いかけた。
土俗的で、古くからの日本的な言葉を使って(ときにはそのメロディも使って)、新しいことをやろうとしたのである。
海外モノに対する日本土俗モノの対抗であった。
関西フォークの衝撃は「海外かぶれではなく、日本のものでいいではないか」と強烈に言い放ったところにある、そう見ることができる(当時はそういう感覚はあまりなかったとおもう)。
このメッセージが反体制運動をしている若者たちに熱く受け入れられていく。
関西フォークは、反米反英音楽だととらえていいとおもう。バタ臭いという言葉は「バターくさい」の関西訛りのようにおもえるのだが、そのバター臭さに対して、もっと「日本の土の匂いを」という動きだった。それには関西が合っていた。
関西の言葉というのは、関東の言葉に比べて、より母音が強く発音される。「手」「目」「歯」は、関西の発音を厳密に書くなら「てぇ」「めぇ」「はぁ」である。実際に小学生が、よみがなを、てえ、めえ、はあ、と書いて減点されたという話を聞いたことがある。つまり、よりドメスティックな日本語で歌おうとするとき、母音の力が強い関西言葉がひとつの大きな力になっていったはずだ。
やがて岡林信康は隠遁したあと、演歌の世界に近づいていき「エンヤトット」という日本独自の民謡リズムにたどりつく。関西フォークらしい当然の帰結だと、いまだととても納得できる。
1960年後半の学生運動では、アメリカ帝国主義を米帝と略記し、よく〝反米〟〝反帝〟という言葉を見かけた。アメリカに代表される高度資本主義経済は悪であり(富が金持ちに集中し、労働者が搾取されるから)、社会主義や共産主義を善としていた。この当時の共産主義といえば、ソビエト社会主義共和国連邦は疲弊しているイメージだったから、〝文化大革命〟を大進行中の毛沢東の中国の人気が高く、謎の国ながら地上の天国だとおもわれていた朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)やホーチミン率いる北ベトナムが、学生運動家に人気であった。
その時代は、資本主義対共産主義という図式で見ていたが、あらためて見直すと、資本主義は欧米の文明を指しており、共産主義は、中国に北朝鮮に北ベトナムを指していた。(モンゴルもユーゴスラビアもルーマニアもチェコスロバキアも東ドイツも共産主義国家だったはずなのだが、あまりそのへんの国名は出てなかった。ソビエトと同一視されていたからだろう)。よく見ると、共産主義はアジアの国を指しており、学生運動はある種「反欧米、親アジア」という図式にもなっていたのである。(アジア全体に親しみを感じていたわけではないが)。やや見落とされがちなポイントだとおもう。
土俗的なフォークソングが、60年代末期の社会運動と邂逅する。運動と歌が短い期間ながら連動し、岡林信康は〝フォークの神様〟と称されるようになる。
岡林はいまみると(いまからみても)、とてもビジュアルがいい。髭をはやした顔がすこし神々しい。戦う神父というような風情を漂わせている。キリストに見えた、という人もいる。たしかに。ビジュアルからこの人はとても受けたとおもう。(父は牧師で(神父じゃないです)岡林自身も同志社大学の神学部に入っている)。
ただ、おそらく勘のいい人なのだろう、プロテストソングを身体の内から絞りだすように歌えたのは1968年と1969年だけである。(1967年ごろからマイナーエリアでは歌い始めていたようだから、それを含めても3年ということになる)。創作を、内から出し続けようとするなら、そんなに続けられるものではない。何かを通していって、それを変化させる創作なら続くのだろうが、岡林信康にはそんな器用な真似はできなかったのだ。
彼が〝フォークの神様〟として存在していたのは(自身は望んでいなかったのだろうが)、それは1968年と1969年の2年ということになるだろう。
反体制的なメッセージのフォークソングが流行していたのは、学生運動がもっとも盛り上がっていたその2年にほぼ集中していた。その余韻があと2年、1971年まで続いていた、と見るとフォークシーンはわかりやすい。
1970年に中学一年生だった私にとって、フォークソングは最初は先輩たちが教えてくれるもの、つまり与えられるものだった。自分から積極的にレコードを聞いたりしたのは、1971年の後半になってからである。そのとき、岡林信康の姿はきれいに消えていた。まったく知らない存在だった。フォークソングがかなり好きだったのに(1971年にかなり無理を言ってギターを買ってもらった)岡林信康をまったく知らないというのは、おそらくそういう流れの中にいたからである。
1970年の日米安保協定の改定に反対する動きと(いわゆる安保反対)、激化するベトナム戦争への反対運動と(これはアメリカの若者に端を発している)は、本来は別方向の運動なのであるが、当時の自民党政権(だいたい佐藤栄作政権)の政策に反対していくというところでは共通しているので、何だか盛り上がった。細かいことは気にせずに、盛り上がっていった。祝祭感がどんどん漂い始める。それぞれの運動の芯にいる人たちはそれぞれの問題を真剣に考えていたんじゃないかとおもうが(確証はない)、運動が広がっていくにつれ「とにかく体制側のやることは間違っているので、何でも反対したほうがいい」という空気が醸成されていった。
「考えなしに反対していれば、何だか考えているように見える」、というやつである。これは便利だ。たしかに、こういう動きを起こさないと、社会運動というのは結実しないものであるが、そうなってくると社会運動というより、祝祭的空間を出現させるために動きになっていってしまう。
1960年代後半には(1968年と1969年を頂点に)、見渡すかぎりのほとんどの若者がそういう流れのなかにいるように見えた。実際には日々の生活に追われ、そういう関心を持たなかった若者も多数いたはずなのだが、そんな深いところまでは見えてこないので、ふつうの若者はみな「反体制運動」に賛同しているかのように感じられた。(少なくとも小学生の子供にはね)。
歴史が下ってみると、安保反対という動きがよくわからない。明智光秀がなぜ織田信長を殺したのかがよくわからないのと同じである。安保に反対したところでたぶん保障条約は改定されるだろうし(国会の外で大勢でデモしたところで改定を阻止できるわけがなく、つまりその戦いに勝とうという戦略ではない)、もし万一、日本とアメリカの安全保障条約を破棄した場合、じっさいに国防はどうするのかというビジョンをあまり聞いた覚えがない。ソ連に守ってもらうつもりだったのかしら。(おそらく、非武装中立、というのがスローガンだったのだとおもう。それが成り立つと信じている大学生を想像するだけでくらくらする)
つまり反対運動の先の明確なヴィジョンを示された覚えがない、ということである。「とにかく反対、それが正しいのである」、とみんなで言ってるようだった。
そんな「気分」で盛り上がっているときに、岡林信康は「言葉」を与えてくれた。
岡林信康の音楽的な志向とはまったく関係なく、岡林信康のいくつかの歌を知って、社会運動の側が岡林信康を「自分たちサイドの歌手である」と決定して、自分たちサイドに取り込んでしまったのだ。最初はそれに乗っかっていった岡林信康であったが、彼はあくまで歌手である。人生を賭して社会正義のために戦う、とは言っていない。(たぶん)。でも運動側はそんな態度は許さなかっただろう。岡林信康は追い詰められていくことになる。
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