初めて「哲学」の名を冠した著作
—— 本日は、新刊『ゲンロン0 観光客の哲学』についてお話伺えたらと思います。これは東さんが経営している出版社ゲンロンの単行本にして、久しぶりの東浩紀さんの単著なわけですよね。
東浩紀(以下、東) そうです。単著としては、『弱いつながり』以来、3年ぶりになりますね。
—— 表紙が美術家の梅沢和木さんによる、グーグル・マップの……
東 そう言われてみれば似てなくもないかな?(笑)
—— なんかかっこいいマークですね、的な(笑)。置いときまして、帯には“『郵便的』から19年 集大成にして新展開”と書いてあるんですけど、まさにその通りだなと。
東 ありがとうございます。そうなんですよ。
—— ふんわりとした読後の印象からになりますが、すがすがしさに満ちあふれてますよね。本日の東さんも心なしか、なんというか穏やかというか。
東 「吹っ切れた感」があるんですよねえ、これが。
—— 読んでみても、なんだか気持ちよくて。
東 今回は言い訳がいっさいないんですよ。
—— あ〜。確かに東さんの今までの著作には、いつもどっかに諦念があったような気がします。たとえば、ゲンロン初の書籍『思想地図beta1』(2011)の巻頭言にはこう書いてありました。
思想の文脈について語る文脈、批評の文脈について語る批評という言論の自己循環的なありかたからこそ、本誌はまず決別しなければいけない(中略)この国の、この世界の「いま」について、まっすぐに語ることのできる状況をつくる。
『思想地図beta1』P7より
こんな風に、現代思想の影響力のなさ、批評というジャンルの限界、といった意識がどこかしらに書かれていて。でも、今回そういうことに関する、ひっかかりがないというか。
東 もう業界の評判は気にしてないんです。他人は他人でいいやと。
—— しかも、“集大成”と書いてあるだけあって、過去の著作、『存在論的、郵便的』『動物化するポストモダン』『一般意志2.0』『福島第一原発観光地化計画』『弱いつながり』のすべての続編にもあたるという……。
東さんの往年の読者からすれば、そんなことありうるのか、って感じだと思うんですけど。
東 あったんですね、これが(笑)。
—— 構成としては、第一部が「観光客の哲学」、第二部が「家族の哲学 序論」と題されてますよね。東さんの数ある著作の中でも“哲学”って題されたものってほとんど……
東 ないです。
—— それはやはり、これぞ「哲学」と呼ぶに足ると思われたからですか。
東 Twitterでも書いていますが、この書物は自分としては傑作で未来に残るものだと思っています。だから堂々と「哲学」とつけました。
炸裂する超要約力
—— 「哲学」の名を冠するだけあって、やっぱり今回はスケールが大きいなと思いました。
中でも少し触れられてますが、東さんの代表作のひとつであろうオタクがいまどのようにサブカルチャーを消費しているかを読み解いた『動物化するポストモダン』(2001)。あれは売れ続けていると思うのですが、差し支えなければ何刷りぐらいですか?
東 今27刷りです。
—— これも実は、情報社会論の一部を切り出したものにすぎないと書かれていますよね。
でも『ゲンロン0』は、器がもっと大きくて、「いま私たちはどういう世界に生きているか」「私たちはどんな存在か」「私たちはどのように生きるべきか」という、なんだかとっても哲学な問いに真正面から迫ってますよね。
東 ありがとうございます。そのつもりです。
—— で、これをさまざまな哲学者、ルソー、ヴォルテール、カント、ヘーゲル、シュミット、コジェーヴ、アーレント等などの近代の哲学者の概念を用いて解き明かしているんですが、そこかしこで東さんの超要約力が炸裂しているというか。
東 読者は驚くんじゃないですかね。あれ、この「東浩紀」という人、ニコ生主かと思っていたら意外と難しい本も読んでるのでは? みたいな(笑)。
—— いやいやいや(笑)。過去の思想家が「人間とはなにか」をこういう風に考えていた、という部分をすこし抜粋させてもらいます。
シュミットもコジェーヴもアーレントも、十九世紀から二〇世紀にかけての大きな社会変化のなかで、あらためて人間とはなにかを問うた思想家である。そこでシュミットは友と敵の境界を引き政治を行うものこそが人間だと答え、コジェーヴは他者の承認を賭けて闘争するものが人間だと答え、アーレントは広場で議論し公共をつくるものこそが人間だと答えた。答えはいっけん三者三様だが、彼らが人間と対比したものを考えると、共通の問題意識が浮かび上がってくる。
(中略)
彼らはみな、経済合理性だけで駆動された、政治なき、友敵なきのっぺりとした大衆消費社会を批判するためにこそ、古きよき「人間」の定義を復活させようとしている。言い換えれば、彼らはみな、グローバリズムが可能にする快楽と幸福のユートピアを拒否するためにこそ、人文学の伝統を用いようとしている。
『ゲンロン0 観光客の哲学』P108より抜粋(ボールド部分:傍点表記)
—— こういう総括からの論旨の運びが本当にわかりやすかったです。
東 ありがとうございます。とはいえ、この書物は全体的にすごく大きな話をしていますから、専門家からすれば、間違っているというか、不正確なところもあるんだと思います。
—— まあ専門家でない限りは、厳密性みたいなものを問えるほどの知識はなさそうですが。
東 この本はあちこちに「要するに」という言葉が出てくるけれど、専門家はこういうふうに要約されることそのものがいやなはずです。実際、「カール・シュミットについてそんな簡単に言えるわけがない」って言われたら、そうなわけでしょう。
—— そうなんですか。
東 たとえば『ゲンロン0』で引用されている「政治的なものの概念」にしても、そもそも1920年代にいちど雑誌に発表され、それが30年代に書籍として出版されたテキストなんだけど、じつは二つのあいだでさまざまな記述の違いがあって(仮定の話です)、それも読まずにシュミットについて語っている東はまったく大ざっぱで学問的に参照に値しない……とか言われたら、ぼくは反論できません。そもそもぼくは邦訳でしか読んでないですからね。
—— 文脈が込み入りすぎて、よくわからないですね。
東 まあしかし、それが研究者というものです。ぼくはその世界があるのも知っている。
でも、今回はいいんです。批判は批判として受け止めますが、そういうリスクを冒したうえでも、僕は今回こういう「大きな話をする」本が書きたかった。人間とはなにかとか、文明とはなにかとかについて、正面から取り組む本が書きたかった。
—— はい。
東 人生は有限ですからね。そんなことをやっていたらなにもできないまま死んでしまう。というわけで、今回はぼくは勝手に自分の書きたいことを書くことにしました。
—— 2章・3章で、以下のように二項対立で、グローバル化した現代を読み解いていますよね。
まじめな公⇔ふまじめな私
政治⇔文学
社会⇔実存
人間(誇り高き精神)⇔動物(欲求を満たすだけ)
全体主義⇔個人主義
ナショナリズム⇔グローバリズム
リベラリズム⇔リバタリアニズム
国民国家⇔帝国
……etc
東 これ、すごいわかりやすいでしょ?
—— いや、ここめちゃめちゃわかりやすかったです。
東 こういうふうに整理されてないのがおかしいんですよ。
—— 恥ずかしながら、きちんと学んでない身からすると、リベラリズムとリバタニアリズムとか、出てくる度に、検索する程度じゃいろいろ文脈があって難しいなあとか思っていまして。
東 ぼくの理解では、リベラリズムは1970年代にリバタリアニズムとコミュニタリアニズムに分裂し、それの政治的な表現が、ナショナリズムとグローバリズムにあたります。つまりいまは、右左の対立は存在しなくって、ナショナリズムとグローバリズム、「国民国家」と「帝国」の対立しかないんです。
こう整理すると、昨年のアメリカ大統領選もいまのフランス大統領選も、ぐっとわかりやすくなるんですけどね。
—— 「これWikipediaに書いてあったらいいのに」って思いました(笑)。
東 僕もそう思います(笑)。でもこの本にも書いてある通り、研究者の世界のなかでは、そもそもリバタリアニズムはまともな思想だと位置づけられていないんですよね。だから思想史に入ってこない。これはべつに僕が勝手に言ってることじゃなくて、大澤真幸さん ※ からそういう言葉を聞いたことがある。
政治思想の業界では、とりあえずリバタリアニズムは除外して、リベラリズムとコミュニタリアニズムの論争のほうが大事だということになっています。ぼくの本はそこで考え方を根本から変えているわけです。そこも、本職の研究者からすれば乱暴きわまりない主張でしょうね。
※大澤真幸:1958年長野県松本市生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得満期退学。社会学博士。千葉大学文学部助教授、京都大学大学院人間・環境学研究科教授を歴任。
—— なんでこういうことが整理されてないんでしょうか?
東 うーん。そうですねえ。アカデミズムの世界では、本書でいう「帝国」の秩序というか、グローバリズムの方はまともに考えるに値しないということになっているんですよね。
—— えーと、考えるに値しないのは、文脈が断絶してるからですか?
東 いや、それは「動物」の世界にすぎないからです。
—— ああ、「動物」というのはつまり、他者と関わらなくても、食欲や性欲、大衆娯楽などの消費活動への欲求で満足してしまう「動物的な人間」については、きちんと考える必要がない、と。
東 そうです。動物がつくる世界については、伝統的な哲学の世界では、哲学的にまともに考えるに値しない、考えるにしても否定すべきものだと見なされている。それは人間が作ったものではなく、自然に発生した現象にすぎないと見なされているからです。
—— では、「動物的」な人間や営みを真正面から扱った上で、公と私、政治と文学、人間と動物を統合することを提案しているこの本は、さらに先を行っているんですね。
東 ぼくとしてはそのつもりです。21世紀の哲学は、まず「動物」の世界をきちんと考えなければいけない。その上で、動物の世界と人間の世界を往復する可能性について考えなければいけません。
この文章は技術の集積でもある
—— それにしても、この鮮やかな読後感の理由は、理路整然としているからだけではないですよね。
これだけ過去の文脈を知らなきゃいけないことを、こうもスラスラと楽しく読めるってちょっと異常だなっていう。
東 自分で言うのも口幅ったいけど、それは基本的には技術によるものです。単に論理を明快するにするだけでなくて、どういう文体でどういう長さの文章を書くかとか、段落をどういうふうに切ってどういうふうに組み合わせるとか。
ネットのせいでいまの若い読者はわからなくなってきているかもしれないけど、考えたことを考えた順番でだらだらと垂れ流すのが批評ではありません。思考の骨組みを論理として整理したうえで、論理を乗っける感情の流れとか、あとは単純な長さによる体力の問題とか、そういうことを全部考慮して文章に落とし込むのが物書きの仕事です。
—— 「長さによる体力」というと「こんな長い文章読む気しないよ」とかそういうことですか。
東 そうです。
—— 語り下ろしで一度構成してあったものを、最後に書き直したと伺っています。
東 ええ。本書については、当初は書き下ろしの予定で、いちどかなりの部分までできていたんです。けれど、昨年秋に一人ホテルでその原稿に向かい合ってみて、これじゃないなと。そこで「です・ます」を「だ・である」に変えて、すべて書き直すことを決意したんですね。
書くなかでは、1章は何文字、2章は何文字、3章は何文字といちいち計算しながら、同じ重要性をもつものは同じ長さになるように、いろいろ整えています。たとえば、ヴォルテールの読解もカントの読解はだいたい同じような長さになっているはずです。そういうふうに調整してる。そうすると、覿面に読みやすくなるんです。
—— 訴えたい論旨は固まっているとして、どうしてそこまで労を惜しまず推敲できたんでしょうか。
東 ぼくは批評家で、今年でデビューして24年になります。そういうなかで培ってきた文章の技術があるんだと思います。批評家っていうのは、読むひとが読みたくないと思ったら、もう金も入ってこないし何も入ってこない。終わりなんですよね。そこは研究者とは違う。
—— なるほど。批評家としての東さんが身につけた技術の集積だと。
東 もう一つ大事なのは、ぼくが古い時代の批評を読んでいることだと思います。
—— 『ゲンロン1』から『ゲンロン4』で特集した「現代日本の批評」シリーズで批評の歴史を総括されたのもよいきっかけになっている。
東 はい。「現代日本の批評」シリーズではこの40年の批評史を振り返っていたわけですが、そうすると、批評が衰退しているのをはっきりと認識するんですね。先人たちに対する敬意もあらためて湧いたし、逆にいわゆる「ゼロ年代の批評」というものがいかに小さくみみっちいものだったのか、自戒も込めてわかってくる。そしてそれを立て直すには、他人に期待しないで、自分で自分のやりたいことをやるしかない。
批評が衰退し消滅しているいまだからこそ、「批評にはこんなことができるんだ」という表現の可能性を、だれかが大胆に示さなければいけない。そのために書いたのがこの『ゲンロン0』です。
—— なるほど。この本を読みながらふと東さんが飲みの席でおっしゃってたことを思い出したんです。
東 というと?
—— すごく普通のトーンで、「おれ、けっこうサルトルとか良いと思うんだよねえ」って。「あのあたりは認めてもいい」と言っていて(笑)。
東 偉そうだなあ(笑)。
—— 「ノーベル文学賞も辞退してさ、そういうとこもいいよね」って(笑)。まあ今回このスケールの大きさは、なんかそういう過去の偉人たちとこう、肩を並べる……
東 未来のだれかが、「東浩紀もけっこういけるんじゃない」みたいに居酒屋で語るわけだ(笑)。いや、でも、マジでそういう次元で読まれたいですけどね。
—— この連載は、フランスの哲学者デリダについて本(『存在論的、郵便的』1998年)を出して、つぎにオタク論(『動物化するポストモダン』2001年)を出して、小説(『クォンタム・ファミリーズ』2009年)を出して三島賞を受賞して、出版社(「ゲンロン」2010年)を立ち上げて、ゲンロンカフェとかをやって、チェルノブイリ(『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』2013年7月)に行って、今度は福島(『福島第一原発観光地化計画』2013年11月)に行って……。そんな東さんの多彩な活躍をなぞらえて、「東浩紀よ、どこへ行く」っていう不遜なタイトルをつけさせてもらったんです。
けれど今作は、なんというか、大きな壁をいろんな角度から乗り越えようとしていた東さんが、今までの著作をすべてひっさげて、然るべき未来の方へ壁を貫通させちゃったという印象です。
東 ありがとうございます。そう言ってもらえてよかったです。
—— では次回は、現代に生きる「観光客」の正体についてお話を伺えたらと思います。
聞き手・構成:中島洋一