小学校時代に育まれた「分人」の概念
加藤貞顕(以下、加藤) 『空白を満たしなさい』、拝読しました。すごくおもしろかったです!
平野啓一郎(以下、平野) ありがとうございます。
加藤 自殺という重めのテーマなのに、謎解き的な要素があったりして、ハラハラしながら勢いよく読むことができました。人生の深奥な話と、おもしろさと両立しているのがすごいです。
平野 そう言っていただけると、うれしいです。
加藤 この作品は、平野さんが『決壊』(新潮文庫)以来提示されている、「分人」という概念をキーにしたものですよね。ぼく自身もこの概念を知って、ちょっと生きるのが楽になったんですが、まずはこの話からうかがわせてください。
『私とは何か——「個人」から「分人」へ 』(講談社現代新書)でもくわしく書いたんですよ。
平野 はい。分人については、前に出した加藤 人間にはいくつかの顔があって、相手によってそれを使い分ける。それは表面的な「キャラ」や「仮面」ではなく、それぞれが考えたり人生を決断できる「人格」である。という理解であってますか?
平野 ええ。いままでは、一人の人間は「分けられない(individual)」存在だと思われていたものが、実は複数に「分けられる(dividual)」存在だというのが、僕が考えた分人という概念です。
加藤 そもそも、どうしてこんな発想が出てきたんですか?
平 野 分人について、ちゃんと整理して考え始めたのは、この5年くらいなんですよ。でも、元をたどると、小学生時代に「ある違和感」を持ったことがはじまりだったのかなと思います。
加藤 そんなに昔から。
平野 決定的だったのが、小学校の保護者面談の日で、母親が先生から言われたんです。「啓一郎くんは相手によって態度を変える。頭がいいから小器用に生きているんじゃないか」と。
加藤 それは、ひどい言われようですね(笑)。でもたしかに、いまの社会では「人間は一貫性を持つべき」という考え方が一般的です。そして、学校はとくにそういう規範が強い場所ですよね。
平野 僕も、意識してやっていたわけじゃなかったんだけど、その時初めて「あ、いけないことなんだ」と思いはじめたんです。だけど、先生に向かって友だちと同じ感覚で「おい、お前!」なんて話しかけると怒られちゃうし。どうしたらいいのかわからなくて、混乱してしまいました。
加藤 混乱するのは、平野さんが誠実に生きていたからですよね。普通はもっと、なんとなくすごしている気がします。
平野 僕も先生に言われるまでは、気が付かなかったですよ。
加藤 で、人によって態度を変えるのはやめたんですか?
平野 それが、そうでもないんですよ。僕は、小学校のころからよく読書をするようになって、本を通じていろんな作家と出会いました。いちばん驚いたのは、僕が常日頃から考えていたり悩んだりしていたことが、いろんな作品の中に書いてあったことです。
なんというか、僕の気持ちを代弁してくれているような気さえしました。で、本を読んで何かを感じている自分こそが、本当の自分だと思うようになったんです。でも、学校の友だちとはそういう内面の話とかはできない。
加藤 それ、すごくよくわかります。
平野 結局、本を読んでいるのが本当の自分だと思ってしまったから、学校にいる時の自分は演じているんだと思うようになりました。そうすると、相手も表面的に演じているだけなんじゃないかと思うようになり、人と付き合うことを、どこかで楽しめなくなってしまったんです。
加藤 ちなみに、そのころから作家になりたいという願望があったんですか?
平野 うーん、そうでもないですね。その後、高校生くらいになると、もう小説を書きはじめていたんですが、ちゃんとしたリアリティを持って考えてはいなかった。
加藤 じゃあ他に、将来の夢みたいなものはありましたか?
平野 「将来の夢は?」というのは、当時の僕には一番つらい質問でした。なりたいものはなにもないけど、完全に無気力に生きて行きたいとも思っていない。何者かにはなりたいと思っている。でもその何かがわからないというか……。
加藤 はい。
平野 小説を読むのは好きだし、小説を書いていたし、作家になりたいということだったのかもしれない。でもその頃って「作家になりたい」なんて、気恥ずかしくて言えない年齢じゃないですか。
加藤 ああ、それは言えないです。
平野 でも、将来の夢を聞かれて、口ごもらなければいけないという状況も嫌でした。本当にどうしたらいいのかわからなくて、満たされない気持ちや、漠然とした将来に対する不安だけがありました。
『日蝕』(新潮文庫)でデビューされて、芥川賞につながっていくところが普通じゃないんですが。
加藤 意外というか、平野さんにも、みんなと同じような普通の悩みがあったんですね。でも、書かずにいられないから書いていて、そうしたらそのまま大学生のうちに共同体の解体から個人の解体へ
平野 そうやって思い悩んだ日々って、「自分探し」に近かったんだと思うんです。
加 藤 自分探しですか。
平野 自分探しというのは、「本当の自分」がどこかにあると考えて、それを探す行為ですよね。僕の場合は、作家になるのが「本当の自分」であってほしいけど、でも、なれなかったら自分はどうなっちゃうんだろうと思っていたわけです。だから、作家になりたいと口に出して言うことができなかった。
加 藤 そうか、だんだんわかってきました。
平野 でも、「本当の自分」という概念のほうが間違いで、そこに一貫したものは必要ないんじゃないかなと思いはじめたんですね。
加藤 『空白を満たしなさい』にも、「『本当の自分』には、実体がない」という話が出てきます。
平野 人は環境要因で変化しますよね。アメリカで育つのか、日本で育つのかだけでもぜんぜん違う。だから、生まれながらに決定された自己なんてものはなくて、環境によって人が変わるのは当たり前の話なんですよ。
加藤 たしかに。
平野 新しい環境や、接する人によって変わっていくのが当然で、自然であることを認めるべきなんじゃないか。いま作家になりたいと言っていても、のちに出会った人や影響を受けたことで夢が変わるなんて当たり前のことでしょう。その当たり前を認められないことが、すごく人間を不自由にして、ストレスを与えている気がしたんです。
加藤 そういえば僕も、学校がすごく嫌いな子どもだったんです。でも、学外でやっているボーイスカウトの活動は、ぜんぜん違う人達が集まっていて楽しかった。だから、『私とは何か』にある、自分の分人を分散投資して同時進行させることでリスクヘッジしていくべき、という話がすごく腑に落ちました。
平野 そう。まさにそういうことが言いたくて。人は、自分が心地いい分人になれる場所や相手をいくつか持っておくべきなんですよ。学校にいるときの自分は嫌だけど、塾にいる仲のいい友達といる自分はいきいきしてるとか、家族といる時の自分は好き、みたいな。
加藤 そうか。複数のコミュニティに所属していると楽だし、なんというか、安全ですよね。いざというときに。
平野 こうやって、分人として個人を分割して考えると、いろんな人生の問題に対して、整理して考えられるのがいいんですよ。「区切りをつける」という言葉がありますが、恋人と別れたとか、転職したとか、それを全部ひとりの人間として固まりで考えるのではなく、分人単位で区切ればもっと生きやすくなるんじゃないかなと提案してるんです。
加藤 救われる人がたくさんいそうですね。
平野 そもそも、ヨーロッパで「個人」という概念が今みたいなかたちで根付いてから、たかだか300年くらいなんですよ。それより前は、領地や教区、都市、家族みたいな共同体がアイデンティティの単位でした。それが近代以降に解体されてゆくなかで、個人という小さな単位が必然的に注目された。実は、革命的なできごとだったんです。
だから、その次に起こるのは、個人がさらに細かく、意識レベルで解体されていくという過程だと思うんです。ただ、まだ一般的な概念として確立されていないから、みんな苦しんでるんですよ。
加藤 なるほど! 個人って近代の産物なんですね。いま、それがより細かい単位に分かれていく過程だというのは、すごく納得感があります。
平野 そもそも、人間を個人に統合するっていう考え方は、すごく無理があったんだと思います。子供を見てると、一歳くらいになると、もう驚くほど自然に分人化します。親に対する態度と、保育園の友達に対する態度、保母さんに対する態度は全然違う。
加藤 よくネットで、暗いと思っていた人が、すごく明るいツイートをしていたりすることがありますよね。あれも一種の分人と考えていいんですか?
平野 それはまさにそうですね。ネットはけっこういろんな分人を浮き彫りにするんですよ。ネットを使い始めたころは、普段知っているのとまったく違う顔を見せる友達とかに、けっこう面くらったりしましたよね。
加藤 いまでも、Facebookなどでびっくりすることがあります。
平野 ネットの前は、自分と相手の間の分人しか見る機会がなかったのに、現在はそれ以外の分人も可視化されてしまったためです。また、ネットの存在は、分人という考えを整理するのにも大きかったです。
自殺願望はポジティブな意志から生まれる!?
加藤 もう少し『空白を満たしなさい』のお話をうかがいたいのですが、分人について書くにしても、どうして生と死をテーマにして書こうと思われたんですか?
平野 僕の父親は36歳で亡くなっているんです。で、僕はずっと自分がその年まで生きられると思えなかったんです。親より年上になるって変な感じでしょう。
加藤 ああ、なるほど。
平野 だから、その年齢に近づくにつれて、死についてよく考えるようになったんです。そんな時、震災が起きて、ものすごく沢山の人が亡くなった。ちょうど同じ頃、子どもが生まれたんです。
加藤 それは、生と死について、考えざるをえない状況ですね。
平野 亡くなった人に対する想いについて考えていたんです。生きている人が持っている、一番強い想いはなんなのかなあと。僕の中での結論は、「できるならまた会いたい」でした。その一番強い想いを核にして小説を書こうと考えて、死んだ人が生き返るという話にしました。
加藤 普通の「死」についてではなく、「自殺」の話にしたのはなぜですか?
平野 僕自身は自殺しようと思ったことはないんですが、心情的には理解できる気がしてたんです。一つはやっぱり、自己否定の延長線上にあるんじゃないかなと。
加藤 自己否定ですか。
平野 たとえば、自分のことを振り返ると、僕が自己否定したい気持ちになるのは、「恥ずかしい」とか「いやだった」とか「あんなことをやった自分を消してしまいたい」と思った時だということに気づきました。簡単に言うと、「その時の自分を消したい」という気持ちです。
加 藤 ああ! その延長で、自分自身をこの世から消してしまうのが自殺ということですか!
たしかに、「個人」を単位として見れば、自殺は「自分を消す」行為だけど、「分人」として考えると、複数あるアイデンティティのある一部分を消して、別の理想的なアイデンティティを強化したいのかもしれない。そう考えると、自殺する人は、死にたいわけではなくて、むしろ生きたいのではないかと。全部じゃなくても、少なくとも一部の自殺はそうなのではないかと思いました。
加 藤 おおお……なるほど。分人で考えると、すごくすっきりします。嫌な自分を消したいだけで、全部消してしまいたいわけじゃないですよね。……そうか。
平野 そもそも自殺って、その瞬間はどのくらいはっきりした意識があるのかわからない。誤って亡くなってしまった、というケースもかなりあると思います。それも重要ですが、いずれにせよ、なにかよっぽど強いものがないとできないと思うんです。たとえば、ビルの上から飛び降りるって、相当な勇気がいるでしょう。
加藤 たぶん、すごく怖いですよね。
平野 その強すぎる何かの正体はなんなのか。それが、こうあるべきだ、とか、こうするべきだ、みたいな思い込みを生んでしまい、その通りにいかない自分を責めて、「消したい」、「消えたい」という発想を持たせてしまうのではないか。真面目な人ほど思いつめるというのは、そういうことなんじゃないかな。
加藤 あと、人が自殺をすると、周囲の人も深く傷つくという話がありますよね。
平野 そう。本にも書きましたが、自殺した人の身近な人は、自分がなぜ止められなかったのか悩みますし、その周りの人から責められることもあります。本当に気の毒です。
加藤 本人だけの問題じゃなくなるんですね。
平野 周囲の人が自殺者の家族を責めたりしてしまうのも、社会が自殺に対して根本的な誤解をしているからだと思うんですよね。
加藤 誤解ですか。
平野 自殺の要因は多様なので、この小説だけで全て網羅できたとは思っていません。でも、実際いま起きている自殺で僕が気になるのは、家族も仕事もあるのに突然自殺してしまったり、あるいは就職活動で失敗して自殺してしまったり、それこそもっと「ぼんやりとした不安」で自殺してしまうとか、そういう種類のものです。
加藤 たしかに、昨日まで元気だったのにいきなり、っていう話はよく聞きます。
平野 そう。端から見ると、完全に絶望的とは思えない理由で自殺している人たちがたくさんいます。いじめだとか経済問題なら、まだ社会が手を差し伸べられる可能性がありますけど、必ずしもそうじゃない。だからそこは、文学が考えるべきところだと思いました。結局、彼らは、自殺という方法を、明確に、主体的に選択して死んだ、と考えるから理解できないんじゃないか。「死にたい」ではなくて、「消えたい」、「消したい」、「休みたい」だったら、ふと胸を過ぎることもあると思うんです。しかも、正確にはそれは、自分の「一部」だけであるはずなんです。
(次回は4月9日更新予定)
本対談の主題になった作品『空白を満たしなさい』の前半をcakesで順次掲載します。対談と併せてどうぞ。
平野啓一郎「空白を満たしなさい」
第一章 生き返った男 1《Save Me》(前編)