すべてがどうだっていいと泣いた夜

一度病に侵されると、もう元に戻ることはできない。星太朗の脳にある病気は、そういう病気だ。シャツについてしまったシミのように、なかなか消えることのない、治らない病気。もうすべてがどうでもいいと思った星太朗は、初めて、涙を流していた。余命を宣告されたときでさえ泣かなかったというのに__。
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「ねぇ、入院とかしないの?」

 スーツに着替えている星太朗に、ムッシュが聞いた。

「意味ないよ」

 さらりと乾いた返事がきて、ムッシュは口をつぐむ。

 なんて声をかけていいのか、またわからなくなってしまった。

 治療の苦しさも、延命の無意味さも、全てわかっていたからだ。

 靴を履く星太朗の背中が、いつもより小さく見える。

「じゃあ、会社に行くのは意味あるの?」

 そう聞いてみると、

「ないかもね」

 星太朗は振り返らずにかかとを靴に押し込んだ。

 ムッシュは何も言わない。何も言えない。

 そんな気持ちに気付いたのか、星太朗はそそくさと家を出ていった。

「行ってきます」

 それはいつも通りの声なのに、ムッシュは「いってらっしゃい」と言えなかった。


 ここ最近、星太朗が家を出ると、ムッシュは森文子の本ばかりを読んで過ごしていた。

 森文子。ムッシュと星太朗のお母さんは、児童文学の作家だった。

 三十歳で亡くなったため、六冊の本しか出版されていないし、特に有名というわけでもない。けれど今でもファンは多く、子どもたちや、その親たちに愛され続けている。

 ソファの正面に設えられた低い本棚の上段に、文子の六冊は並んでいる。色とりどりの布張りの背表紙は、虹のようにきらきらと、横に並ぶ遺影をさりげなく照らしていた。

 ムッシュはそれに手を合わせてから、〈栗色のミミン〉を手に取る。

 ミミンという名のリスが、動物たちの思い出をくるみの実の中にしまってあげる物語だ。一見可愛らしいファンタジーに見えるが、ただ楽しいだけではない。


 僕は、このくるみさえあれば、もうずっと一人で大丈夫なんだ。


 家族を失った狼がそう言ってひとり穴蔵にこもる。

 そして春になっても、穴から出てくることはなかった。

 そんな物語の一篇を読んで、ムッシュは涙がこぼれたような気がした。

 もちろん、ムッシュの目からはそんなものは出ない。そんな気がしたのだった。

 偶然が重なったからだろうか、今日は残業をする人が少ない。だから星太朗は、遅くまで仕事をすることに決めていた。

 この仕事もいつまで続けられるかわからない。

 その思いが、今まで以上のペースで赤鉛筆を減らしていた。

 九時を過ぎると誰もいなくなったので、買っておいたカップ焼きそばを取り出す。どこをどう見ても〈焼きそば〉じゃなくて〈ゆでそば〉だし、そもそも〈そば〉なのかという疑問がいつも頭をかすめるが、今日はそんなことは気にならなかった。

 お湯を入れて待っている間、頭に浮かんだのは今朝のムッシュの顔だ。何かを言いたそうな顔、でも、なんと言っていいのかわからない顔。

 自分がムッシュの立場だったら、余命半年と宣告された友達になんて声をかけるだろうか。そんなことを想像すると、たまらなく苦しくなったし、ひたすら申し訳なく感じた。

 濃いめの焼きそばをすする。水切りが甘かったのか、ソースが汁になって残っている。それがはねて、シャツの袖に付いてしまった。

 慌ててハンカチを濡らし、袖をこする。だがソースは真っ白なシャツにすっと溶け込み、元からそこにあったかのように馴染んでいる。

 星太朗はそれに、自分の脳を重ねていた。

 腫瘍がじわじわと、染み込むように侵食してくる。

 それを拒むように、袖にハンカチをこすりつける。

 強く、ただ力任せに手を動かす。

 白く戻ることはない。

 薄くなりはするけれど、決して元には戻らない。

 星太朗はハンカチを放ると、デスクに突っ伏した。

 もうどうでもいい。

 思えば、袖が汚れたところでどうだっていうのだ。

 突っ伏した顔の下には、原稿が置いてある。

 それもどうだっていい。

 全てがどうだっていい。


 気がつくと、原稿が濡れていた。

 星太朗は、初めて涙をこぼしていた。


 団地についたときには、夜の十一時を回っていた。

 ドアを開けると、ムッシュの歌が聴こえてくる。今日は坂本冬美の〈幸せハッピー〉だ。

 居間に入ると、ムッシュは歌詞に負けないほどの陽気っぷりで、ソファをステージにして歌っていた。マイク代わりにペンを持ち、大観衆に届けるようにこぶしを利かせている。

 これには星太朗もイラっとした。自分を元気づけようとしているのはわかる。だがいくらなんでもこの歌のチョイスはないだろう。タイトル通り、幸せ全開ハッピー満開の音楽は、今の星太朗には苦痛でしかない。

「やめろよ」

 ただいまの代わりに、冷たい言葉を投げる。だがムッシュはそれを無視すると、テンションを上げてサビへと突入した。

 星太朗は無表情でラジカセの停止ボタンを押す。そしてそのまま部屋へ入った。

 布団の上に座り込む。着替えてもいないし、まだ手も洗っていないがしかたない。

 その苛立ちが伝わったのか、さすがのムッシュも歌うのをやめたようだ。部屋がいつもよりもずっと静かに感じる。

 膝を抱えてぼーっと窓の外を見つめる。

 見えるのはこの和室だけ。

 ガラスに反射した橙の電球が、寂しそうにぶらさがっていた。

 ムッシュはステージに立ったまま、閉ざされた襖を見つめていた。それからすぐに下りて、自分用の襖を開ける。そっとしておくべきかと悩んだが、それは誰にでもできることだと思った。

「ねぇ、せいたろ」

 背中に声をかけるが、返事はない。

「人生って、たんぽぽの綿毛みたいなものなんだよ」

 その言葉は、窓ガラスに反射してそのままムッシュに返ってくる。星太朗には届いていない。

 けれどムッシュはそのまま続けた。

「風がないと飛べないけど、風が強いと流されちゃうんだ。ふわふわ空を漂って、どこに行くのかわからない。ずっと遠くに行けることもあれば、すぐに落ちちゃうことだってある」

 ムッシュは思い出していた。昔、一緒にたんぽぽの綿毛で遊んだことを。

 一本ずつ丁寧に抜いて、数を数えたり、ムッシュのヒゲに植え付けたり、どっちが遠くまで飛ばせるかを競ったり。結果はわからないけれど、自分が飛ばした綿毛たちがどこまで飛んでいくのか、想像するだけでわくわくした。

「でもね、それでもみんな、新しい花を咲かせるんだよ」

 そこまで言うと、星太朗はやっと返事をした。

「だから何」

 その声は、いつもの星太朗のものとは違う。そこには真夏のエアコンが作るような、無機質な冷たさが漂っていた。

「うん……だから……死ぬことは、怖いことじゃないのかなって」

 また返事を待つが、星太朗はただじっと、どこかを見つめている。

「だからさ、やりたいことやって楽しもうよ。貯金ぱーっと使ってハワイ行くとか。もったいないでしょ。それに最後にハワイの星空見たくない?」

 ムッシュはちょっと慌ててしまう。気持ちが高まるといつもこうだ。余計なことまで言ってしまう。

 案の定、やっと振り返った星太朗の目は、針のように鋭く、ほっそりと尖っていた。

「ふざけんなよ……」

「ふざけてなんか」

 そう言いかけたけど、続きを言えずに口ごもる。

「楽しむってなんだよ。やりたいことやれば楽しめんのかよ……」

 ムッシュは答えることができない。

「じゃあお母さんも、おじいちゃんも、喜んで死んでったのかよ!」

 星太朗は立ち上がり、勢い良く部屋を出ていった。

 襖がバタンとおもいきり閉められ、大きな振動が畳を揺らす。ムッシュの体は驚き、ぴたりと硬直してしまう。

 体が動いたそのときには、玄関のドアが閉まる音が響いてきた。重い低音がもう一度、ムッシュの体の芯を揺らす。

 慌てて玄関へ走ると、そこはもう静まり返っていた。

 ドアを開けようとするが、ノブには全く届かない。靴箱を開け、棚板を上り、おもいきりジャンプしてノブにぶら下がるが、そこからはどうすることもできない。ノブを回そうとしても、ただぶらりと自分が揺れるだけ。力尽きてそこから落ちると、しかたなくドアに触れてみる。

 分厚くて、巨大で、氷のように冷たいドア。

 それはいとも簡単に、ムッシュから追う気を失わせる。

 人間なら追い駆けることができるのに。

 ムッシュの耳が、力なくうなだれた。


次回の更新は、5月4日(木)です!


話すぬいぐるみと出版社校正男子の切なさMAXの友情物語!


『さよなら、ムッシュ』片岡翔

この連載について

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さよなら、ムッシュ

片岡翔

あの日。気がついたら、その子は話しはじめていた。コアラのぬいぐるみのはずなのに。 それ以来、彼はそのことを20年間秘密にして、生きてきた――。 気鋭の新人映画監督・片岡翔が初めて小説『さよ...もっと読む

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コメント

marekingu #スマートニュース 3年以上前 replyretweetfavorite

yuya_2523 ビジネスとか啓発系とか 鋭くて納得させられる文章も もちろん好きやけど こういう柔らかくてじわーって ゆっくり本の中の世界が広がる 小説とか最近好き https://t.co/XTIgYSSxCW 3年以上前 replyretweetfavorite