「ねぇ、入院とかしないの?」
スーツに着替えている星太朗に、ムッシュが聞いた。
「意味ないよ」
さらりと乾いた返事がきて、ムッシュは口をつぐむ。
なんて声をかけていいのか、またわからなくなってしまった。
治療の苦しさも、延命の無意味さも、全てわかっていたからだ。
靴を履く星太朗の背中が、いつもより小さく見える。
「じゃあ、会社に行くのは意味あるの?」
そう聞いてみると、
「ないかもね」
星太朗は振り返らずにかかとを靴に押し込んだ。
ムッシュは何も言わない。何も言えない。
そんな気持ちに気付いたのか、星太朗はそそくさと家を出ていった。
「行ってきます」
それはいつも通りの声なのに、ムッシュは「いってらっしゃい」と言えなかった。
ここ最近、星太朗が家を出ると、ムッシュは森文子の本ばかりを読んで過ごしていた。
森文子。ムッシュと星太朗のお母さんは、児童文学の作家だった。
三十歳で亡くなったため、六冊の本しか出版されていないし、特に有名というわけでもない。けれど今でもファンは多く、子どもたちや、その親たちに愛され続けている。
ソファの正面に設えられた低い本棚の上段に、文子の六冊は並んでいる。色とりどりの布張りの背表紙は、虹のようにきらきらと、横に並ぶ遺影をさりげなく照らしていた。
ムッシュはそれに手を合わせてから、〈栗色のミミン〉を手に取る。
ミミンという名のリスが、動物たちの思い出をくるみの実の中にしまってあげる物語だ。一見可愛らしいファンタジーに見えるが、ただ楽しいだけではない。
僕は、このくるみさえあれば、もうずっと一人で大丈夫なんだ。
家族を失った狼がそう言ってひとり穴蔵にこもる。
そして春になっても、穴から出てくることはなかった。
そんな物語の一篇を読んで、ムッシュは涙がこぼれたような気がした。
もちろん、ムッシュの目からはそんなものは出ない。そんな気がしたのだった。
★
偶然が重なったからだろうか、今日は残業をする人が少ない。だから星太朗は、遅くまで仕事をすることに決めていた。
この仕事もいつまで続けられるかわからない。
その思いが、今まで以上のペースで赤鉛筆を減らしていた。
九時を過ぎると誰もいなくなったので、買っておいたカップ焼きそばを取り出す。どこをどう見ても〈焼きそば〉じゃなくて〈ゆでそば〉だし、そもそも〈そば〉なのかという疑問がいつも頭をかすめるが、今日はそんなことは気にならなかった。
お湯を入れて待っている間、頭に浮かんだのは今朝のムッシュの顔だ。何かを言いたそうな顔、でも、なんと言っていいのかわからない顔。
自分がムッシュの立場だったら、余命半年と宣告された友達になんて声をかけるだろうか。そんなことを想像すると、たまらなく苦しくなったし、ひたすら申し訳なく感じた。
濃いめの焼きそばをすする。水切りが甘かったのか、ソースが汁になって残っている。それがはねて、シャツの袖に付いてしまった。
慌ててハンカチを濡らし、袖をこする。だがソースは真っ白なシャツにすっと溶け込み、元からそこにあったかのように馴染んでいる。
星太朗はそれに、自分の脳を重ねていた。
腫瘍がじわじわと、染み込むように侵食してくる。
それを拒むように、袖にハンカチをこすりつける。
強く、ただ力任せに手を動かす。
白く戻ることはない。
薄くなりはするけれど、決して元には戻らない。
星太朗はハンカチを放ると、デスクに突っ伏した。
もうどうでもいい。
思えば、袖が汚れたところでどうだっていうのだ。
突っ伏した顔の下には、原稿が置いてある。
それもどうだっていい。
全てがどうだっていい。
気がつくと、原稿が濡れていた。
星太朗は、初めて涙をこぼしていた。
団地についたときには、夜の十一時を回っていた。
ドアを開けると、ムッシュの歌が聴こえてくる。今日は坂本冬美の〈幸せハッピー〉だ。
居間に入ると、ムッシュは歌詞に負けないほどの陽気っぷりで、ソファをステージにして歌っていた。マイク代わりにペンを持ち、大観衆に届けるようにこぶしを利かせている。
これには星太朗もイラっとした。自分を元気づけようとしているのはわかる。だがいくらなんでもこの歌のチョイスはないだろう。タイトル通り、幸せ全開ハッピー満開の音楽は、今の星太朗には苦痛でしかない。
「やめろよ」
ただいまの代わりに、冷たい言葉を投げる。だがムッシュはそれを無視すると、テンションを上げてサビへと突入した。
星太朗は無表情でラジカセの停止ボタンを押す。そしてそのまま部屋へ入った。
布団の上に座り込む。着替えてもいないし、まだ手も洗っていないがしかたない。
その苛立ちが伝わったのか、さすがのムッシュも歌うのをやめたようだ。部屋がいつもよりもずっと静かに感じる。
膝を抱えてぼーっと窓の外を見つめる。
見えるのはこの和室だけ。
ガラスに反射した橙の電球が、寂しそうにぶらさがっていた。
ムッシュはステージに立ったまま、閉ざされた襖を見つめていた。それからすぐに下りて、自分用の襖を開ける。そっとしておくべきかと悩んだが、それは誰にでもできることだと思った。
「ねぇ、せいたろ」
背中に声をかけるが、返事はない。
「人生って、たんぽぽの綿毛みたいなものなんだよ」
その言葉は、窓ガラスに反射してそのままムッシュに返ってくる。星太朗には届いていない。
けれどムッシュはそのまま続けた。
「風がないと飛べないけど、風が強いと流されちゃうんだ。ふわふわ空を漂って、どこに行くのかわからない。ずっと遠くに行けることもあれば、すぐに落ちちゃうことだってある」
ムッシュは思い出していた。昔、一緒にたんぽぽの綿毛で遊んだことを。
一本ずつ丁寧に抜いて、数を数えたり、ムッシュのヒゲに植え付けたり、どっちが遠くまで飛ばせるかを競ったり。結果はわからないけれど、自分が飛ばした綿毛たちがどこまで飛んでいくのか、想像するだけでわくわくした。
「でもね、それでもみんな、新しい花を咲かせるんだよ」
そこまで言うと、星太朗はやっと返事をした。
「だから何」
その声は、いつもの星太朗のものとは違う。そこには真夏のエアコンが作るような、無機質な冷たさが漂っていた。
「うん……だから……死ぬことは、怖いことじゃないのかなって」
また返事を待つが、星太朗はただじっと、どこかを見つめている。
「だからさ、やりたいことやって楽しもうよ。貯金ぱーっと使ってハワイ行くとか。もったいないでしょ。それに最後にハワイの星空見たくない?」
ムッシュはちょっと慌ててしまう。気持ちが高まるといつもこうだ。余計なことまで言ってしまう。
案の定、やっと振り返った星太朗の目は、針のように鋭く、ほっそりと尖っていた。
「ふざけんなよ……」
「ふざけてなんか」
そう言いかけたけど、続きを言えずに口ごもる。
「楽しむってなんだよ。やりたいことやれば楽しめんのかよ……」
ムッシュは答えることができない。
「じゃあお母さんも、おじいちゃんも、喜んで死んでったのかよ!」
星太朗は立ち上がり、勢い良く部屋を出ていった。
襖がバタンとおもいきり閉められ、大きな振動が畳を揺らす。ムッシュの体は驚き、ぴたりと硬直してしまう。
体が動いたそのときには、玄関のドアが閉まる音が響いてきた。重い低音がもう一度、ムッシュの体の芯を揺らす。
慌てて玄関へ走ると、そこはもう静まり返っていた。
ドアを開けようとするが、ノブには全く届かない。靴箱を開け、棚板を上り、おもいきりジャンプしてノブにぶら下がるが、そこからはどうすることもできない。ノブを回そうとしても、ただぶらりと自分が揺れるだけ。力尽きてそこから落ちると、しかたなくドアに触れてみる。
分厚くて、巨大で、氷のように冷たいドア。
それはいとも簡単に、ムッシュから追う気を失わせる。
人間なら追い駆けることができるのに。
ムッシュの耳が、力なくうなだれた。
次回の更新は、5月4日(木)です!
話すぬいぐるみと出版社校正男子の切なさMAXの友情物語!