母と同じ脳腫瘍、余命は半年

病院から帰宅した星太朗のしゃっくりがまだ止まっていないと思ったぬいぐるみのムッシュは、
さらに驚かせようと死んだふりをする。
けれどもしゃっくりは止まっている様子の星太朗。
ドッキリ大成功だと思ったムッシュであったが、星太朗はなにもしゃべってくれない。
その後重い口を開いた星太朗からは、2人にとってとてもつらい事実を聞かされる。
ぬいぐるみと出版社校正男子の切なさMAXの友情物語小説『さよなら、ムッシュ』を特別先行掲載! GW8日間連日公開です。イラストは、なんと松本大洋さんの描きおろし!

 診察室を出ると、もう日が暮れかかっていた。

 窓の外に灯っている、すずらん形の街灯がうなだれているように見える。

 長椅子に腰をおろし、呆然と廊下の奥を見つめる。

 蛍光灯で照らされているはずの長い廊下が、ほの暗く闇を抱えている。

 しんと静まり返っているが、本当に静かなのかはわからない。

 ただわかるのは、自分の体が黙り込み、置物のようになっていることだけだ。

 星太朗のしゃっくりは、止まっていた。


 駅に着いて改札を出ると、月が眩しいくらいに光っている。

 団地に帰ってくると、タコ山が何も言わずに頷いてくれたような気がした。子どもの頃は暴れん坊だった友達が、今はもうくたびれた老人のようだ。

 階段をゆっくりのぼると、いつもは気にもしない汚れやヒビが目に留まった。築四十年になるこの団地も、相当頑張っているんだなぁと思えてくる。

 ドアを開けると、軋んだ音にかぶさるようにカラオケが聴こえてきた。今日は与作が木を切っている。けれどその調べに合わせることなく、気持ちの悪いタイミングで音が止んだ。

 おかえり、と言う声は聞こえてこない。

 部屋の戸を開けると、台所にムッシュがうつ伏せで倒れている。

 右手にはナイフ。といっても、バターナイフ。その床にはべっとりと血のようなものが垂れている。「のようなもの」と思ったのは、固形物が混じっているからだ。それはイチゴジャムだと、すぐにわかった。

 長いこと死んだふりをしているのに、星太朗は何も触れてこない。それどころか声も上げない。

 ムッシュはしかたなく、そろりと顔を上げた。

 星太朗はぼーっとソファに座っていた。珍しく、まだ手も洗っていない。

 それに、なんだかとても静かだ。

 ムッシュはその静けさに、大きな違和感を感じた。

 そうだ、しゃっくりをしていない。

「止まった!? やったぁ!! 成功した!!」

 ムッシュは死んだふりを忘れて、星太朗に飛び付いた。

「ビックリした!? 死んでると思った? 心配しないでよ、これ、ジャムだからね。ぼく、血なんて面倒なもの出ないからね。やった~、見事に決まったね。完璧」

 満足そうにくすくす笑うが、星太朗は静かなままだ。

「あ、安心してよ。このジャム期限切れてたからね? どうせ捨てなきゃだし。それより大変だったんだよ、蓋開けるの」

 クッションを踏み台にして、よいしょとソファに上がる。

 すると星太朗は何も言わないまま、部屋に行ってしまった。

「なんだよ」

 ムッシュは耳をぶるっと振り回して、スーパーのビニール袋を頭からかぶる。床に付いた血糊の処理をするための完全防備だ。少しでも体に付こうものなら一大事。特にジャムの恐ろしさを、ずいぶん前に経験していた。

「こいつはヤバイ。ジャムはヤバイよ」

 ぶつぶつ言いながら、ティッシュで慎重にジャムを拭き取る。こんなときに、人間の体はうまくできているなぁとつくづく思う。ジャムが付いても水で洗えばすぐに落ちるし、数十秒もすれば乾いて元通り。万が一ナイフで手を切ったとしても、多少の傷は自然にくっつく。

 それはまさに超能力。そんな体が羨ましかった。

 床をきれいに拭き終えると、かぶっていたビニールをひっくりかえしてティッシュを包み取る。それをそのままゴミ箱へ押し込むと、部屋の襖をそろりと開けた。

 星太朗は布団に横になりながら、さっきと同じ顔をしている。本も読んでいないようだ。

「ご飯は?」と聞いても、「いらない」とあっさり返ってくる。

 食べてきてもいないようだ。やっぱりどこか様子がおかしい。

「なんか、あったの?」

 そっと近寄るが、星太朗は何も答えない。

「わかった。失恋だ」

 星太朗は何も答えない。

「いや、失恋する相手がいないか……じゃあその逆だ! 恋に堕ちた! フォーリンラブ!?」

 星太朗は何も答えない。

「まさか、その先? つ、ついに初体験とか?」

 ムッシュが勝手に盛り上がると、星太朗はやっと口を開いた。

「病院行ったんだ」

「え? あぁ、なんだ、だからしゃっくり止まったんだ。なんだぁ。それならそうと言ってよね」

 止めたと思って喜んだ自分がたまらなく恥ずかしい。

「グリオーマって言われて」

 その言葉を聞いて、ムッシュはぴたりと動きを止めた。

「知ってるよね? 膠芽腫。お母さんと同じだよ」

「……いや、いや、いやいや。何言ってんの、やめてよー、もう。あ、何、びっくりさせようとしてる? あのね、ぼくのしゃっくりはわざとだよ? 横隔膜なんて、ぼくにはないからね」

 動揺すると、言葉がたくさん出てしまう。頭で考えた言葉ではない。口を勝手に動かしながら、ムッシュは別のことを考えていた。

 それは昔、おじいちゃんに大事なことを教わったときのことだ。

「どうしてお母さんは死んじゃったの?」

 星太朗が聞くと、おじいちゃんはすぐに医学事典を買ってきて、できる限りの説明をしてくれた。ムッシュもそれを聞いていたが、おじいちゃんの前ではただのぬいぐるみを演じていないといけない。一度動いてみせたら驚いて部屋を飛び出し、お隣さんを呼んできたからだ。

 夕方になって、おじいちゃんが散歩に出かけると、ムッシュは待ってましたとばかりに口を開いた。

「グリオーマってなんかすごいね! メラゾーマみたいだね」

 ふざけると、星太朗が初めて激怒したのだ。

 あのときの目は忘れない。星太朗が本気で怒ったのは、後にも先にもそれ一度きりだった気がする。

 ムッシュはそのとき、世の中には決して口にしてはいけない言葉があることを知った。

「半年だって。余命」

 星太朗の声で、ムッシュは今に戻ってくる。

 さらりとした、事務的な声。

 嘘のようなことだし、嘘であってほしいけれど、星太朗がそんな嘘をつくはずはない。それはわかっている。

 ムッシュは何を言っていいのか、わからなくなった。

 星太朗と過ごしてもうすぐ二十年、こんなことは初めてだった。



次回の更新は、5月2日(火)です!


話すぬいぐるみと出版社校正男子の切なさMAXの友情物語!


『さよなら、ムッシュ』片岡翔

この連載について

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さよなら、ムッシュ

片岡翔

あの日。気がついたら、その子は話しはじめていた。コアラのぬいぐるみのはずなのに。 それ以来、彼はそのことを20年間秘密にして、生きてきた――。 気鋭の新人映画監督・片岡翔が初めて小説『さよ...もっと読む

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