しゃっくりが止まらないと思ったら脳腫瘍だと告げられた

驚かそうとしたコアラのぬいぐるみ、ムッシュの努力もむなしく、星太朗のしゃっくりはなかなか止まらないでいた。
ろば書林という星太朗が務める出版社でも、しゃっくりが気になる同僚だちがさまざまな方法で止めようとする。
それでも止まらないしゃっくり。
とうとう耐えかねた星太朗は、翌日病院に行くことになるが……。
ぬいぐるみと出版社校正男子の切なさMAXの友情物語小説『さよなら、ムッシュ』を特別先行掲載! GW8日間連日公開です。イラストは、なんと松本大洋さんの描きおろし!

 星太朗は社員十数人ほどの小さな出版社、ろば書林に勤めている。

 社名の由来は、社長の門馬(もんま)が書いた社訓を見ればわかる。

『今日も明日も、ろばのように』

 ろばは馬のように速く走れないし、美しい鬣だってない。だけど、誰より我慢強くて、なにより優しいんだ。

 門馬社長は毎年四月になると、社員たちに同じ話を聞かせた。

 会社があるのはそんな名前が似合う、古めかしい石造りのビル。その二階に十数台のデスクが並んでいるが、皆一様に本や書類が積み上げられ、それがデスクだとは認識できない。

 その中で唯一、星太朗のデスクだけはスッキリと整頓されていた。九種類の辞書が背の順で並べられ、ペン立てには同じ赤鉛筆が常に五本立てられている。

 いつものようには仕事が捗らない。理由はもちろんしゃっくりだ。

 ただ、それが直接集中力を妨げているわけではない。原因は、ワンフロアの社内にしゃっくりが響き渡ってしまうことだった。それにこんな日に限って、皆静かに仕事をこなしている。

「ねぇ、森くん」

 向かいにそびえる山の隙間から、西野さんが顔を覗かせる。

「は、はい?」

 星太朗はどぎまぎする。

「たんぽぽの綿毛って、何本付いてるかわかる?」

「たんぽぽ……。在来種ですか? 外来種ですか?」

 聞き返すと、西野さんは意表をつかれたような顔をした。

「え、じゃあ、在来種で」

「じゃあ?」

 じゃあとはどういうことだろう。まるで今決めたかのような口ぶりだ。そんなことを考えていると、西野さんは急かしてくる。

「いいから、早く」

「えぇと、日本のなら、たしか百本前後だったと思います」

 星太朗があっさり答えると、西野さんはあからさまに不機嫌な顔になった。

「え、なに、知ってるの?」

「え?」

「知ってたら意味ないじゃん」

 どういうことだろうか。星太朗には全く理解できない。

「あのねぇ、しゃっくりを止めるには、何かをおもいきり想像してしゃっくりのことを忘れるのが一番なの」

 西野さんはそう言ってフロアを出ていった。

 そうか、これは優しさだったのか。

 星太朗の頬は少し赤くなった。

 西野さんは四つ上の編集者で、女性だけど男らしい。デスクの上は社内で一、二を争うほど汚いし、たまに淹れてくれるコーヒーもやけに不味い。

 けれど、星太朗は彼女のことが嫌いじゃなかった。

 眼鏡を取ったら美人なのではと思っていたし、ぐしゃぐしゃに髪をかき回しながら悩んでいる目が好きだった。

「森くんって、いつも眼鏡がきれいだよね」

 ある日の午後、突然そう話しかけられたことを憶えている。

 星太朗は入社してからただの一度も、きれい好きということで褒められたことがなかった。それは自分の唯一の取り柄くらいに思っていたのに、何故か皆、潔癖性とかいう謎のレッテルを貼り、ひとの長所を無理やり短所にしてしまう。

 だから西野さんに褒められたときは、心が跳び上がるくらい嬉しかった。

 そんなことを思い出しながら、しゃっくりのことなんて忘れていたはずなのに、ひっく。やっぱり出てしまう。

 隣の小南くんがまたヘッドホンをした。昨日のようにチラ見をされたわけではないが、その横顔は笑っているように見える。

 彼は三つ歳下。唯一の後輩だが、星太朗は先輩のように振る舞えたことが一度も無い。

 大御所作家を担当するやり手の編集者で、その仕事ぶりを見る度に、校正者で良かった、とつくづく思っていた。

 ろば書林に校正者は一人だけなので、星太朗は全ての校正を担っている。それはとても過酷な仕事だったが、ライバルというものは存在しない。営業をすることも、作家のご機嫌を伺う必要もない。淡々と、自分だけのペースで仕事をすることができる。それはとても幸せなことだった。

 子どもの頃は、密かに小説家になりたいと思っていた。だがその夢を諦めたのは、人と争うことが苦手だったからだ。誰かと競争をしたり、順位を付けられたりすることがとても嫌いだったし、そんなことに意味はないと思っていた。

 だから、いつも斬新な企画を立ち上げ、ヒットを狙っている小南くんのような人間を見ると、単純にすごいなぁ、と感心してしまう。

 自分は文字の間違いを正すだけ。争いと無縁のこの仕事が天職かもしれない。そう思っていた。

「星ちゃん、ちょっと」

 社長に呼ばれて、慌てて席を立つ。

「ちょっとここ、見てくれない?」

 社長は怪我でもしたかのように、手のひらで自分の左耳を覆っている。

「え?」

「いいから、早く」

 命令なのに、その言葉尻はやわらかい。

 覗き込むと、社長は押さえていた手を離し、中から大きな耳が飛び出した。

「でっかくなっちゃった!!」

 それはゴムでできた偽物の耳で、大昔に芸人が流行らせたネタらしい。テレビをほとんど見ない星太朗はそれを知らなかったが、昔忘年会で社長がやっていたことは、はっきりと憶えていた。

 どう反応していいのかわからなかったが、社長が自分を気遣ってくれていることはわかる。驚いてみせないとと思い、「おぉ」と声を上げてみる。が、次の瞬間、ひっく!

 とびきり大きなしゃっくりが飛び出した。

 社員たちが皆、手を止めて見つめてくる。その静かすぎる視線は、星太朗にとって恐怖でしかない。

「なんかごめんね」

 社長は照れくさそうに顔を縮めて、落とした偽物の耳を拾った。薄くなった頭頂部を見て、心底申し訳ないと思う。

「こちらこそ、なんだか、すみません」

 星太朗はいつも以上に頭を深く下げ、社長のしわしわの革靴を見つめた。


 翌日はちょうど休みだったので、星太郎は重い腰を上げて病院へ行った。

 土曜日だからか、総合病院の広いロビーが窮屈に感じるほど混雑している。ベンチで長時間待たされ、呼ばれたときには本を一冊読み終えていた。

 けれどそれからがさらに長かった。呼吸器科で診察を受けたのに、何故か脳神経外科へと回され、その診療を待つのに一時間。その後MRI検査をすることになり、それを待つのに一時間。検査結果を聞くのに二時間。

 その間もしゃっくりは止まらなかった。


「これは、膠芽腫(こうがしゅ)ですね……」

 医者の男がモニタを見ながら声を漏らした。

 それを聞いて、星太朗の動きが静止する。

「膠芽腫って……グリオーマですか……?」

 精一杯の声でそう聞くと、医者は驚いた顔を見せた。

「ご存じですか?」

 星太朗は声に出さずに、こくりと頷く。

 すると医者は静かに息を吐いてから、モニタを星太朗へ向けた。

「こちらに、腫瘍が見られます」

 そこには、ひと目で悪いものだとわかる、大きな影が映っていた。

「稀にしゃっくりが止まらなくなる方がおられるんです。因果関係は解明されていないのですが、おそらく、脳下垂体のなんらかの異常が……」

 異常。医者はその言葉を言ってから、急に声色を変えた。

「ここからは大事なお話になりますので、ご家族にも相談して頂きたいのですが」

「いえ」

 星太朗がぼそりと、だがきっぱりと口にする。

「え?」

「家族は、いませんので」

 そう言うと、医者は視線を落として口をつぐんだ。


次回の更新は、5月1日(月)です!


話すぬいぐるみと出版社校正男子の切なさMAXの友情物語!


『さよなら、ムッシュ』片岡翔

この連載について

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さよなら、ムッシュ

片岡翔

あの日。気がついたら、その子は話しはじめていた。コアラのぬいぐるみのはずなのに。 それ以来、彼はそのことを20年間秘密にして、生きてきた――。 気鋭の新人映画監督・片岡翔が初めて小説『さよ...もっと読む

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