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きっかけはしゃっくりだった。
その日も星太朗(せいたろう)は淡々と仕事をこなしていた。
ただひたすら原稿を読み、言葉を確認していく。ベルトコンベアで流れてくる商品の欠陥を見つけるように、作家が心を込めて紡いだ言葉たちを、心に入れずに読んでいく。
いびつな言葉は文句も言わずにはじかれるが、たまにそれが健気に思えて苦しくなる。
言葉が好きで、本が好きで、校正という仕事に就いたのに。なんでこんな仕事を選んでしまったのだろう。
ときどき、そんなことを思ってしまう。
〈ひゃっくり〉という言葉が出てきて、赤鉛筆を手に取る。
正しくは〈しゃっくり〉である。
ただ、それをすぐに間違いだと決めつけはしない。これは記事ではなく小説だからだ。創作物の場合、作者があえて正しくない言葉を使うこともある。この場合だと、中学生の主人公の言い方を表現しているとも考えられるし、語感を優先しているのかもしれない。一方で、やはり単なる間違いとも考えられる。作家だって国語の成績が悪い人もいるし、言葉の外面に執着しない人もいる。
著者は若い女性作家。彼女の作品を担当するのは初めてだったので、その傾向は読めない。だから星太朗は、迷いなく赤鉛筆を走らせた。
『意図的なものでなければ、正しくは「しゃっくり」です。』
この間、だいたい二十秒くらい。
すぐに次の行へ目を走らせたそのとき、
ひっく
しゃっくりが出た。
しゃっくりのことを考えていてしゃっくりが出てくるなんて、馬鹿げている。けれど驚くほどのことでも、笑うほどのことでもない。気に留めず原稿をめくる。
ひっく
しゃっくりは止まらなかった。
控えめな音が続き、治まってきたかと思えば、突然大きなものが飛び出して驚かされる。そこに意思は反映されないし、先を読むこともできない。胸の中に変な生き物が棲みついたようだ。
胸に力を込めると、多少ボリュームを抑えることができたが、そのぶん肺の奥に圧力がかかって痛む。
ちらっと顔を上げると、向かいのデスクの西野さんと目が合った。慌てて逸らせると、隣に座る小南くんがわざとらしくヘッドホンを着ける。
「すみ、ません……」
星太朗は小さく謝り、原稿をリュックに詰め込んだ。
ひっく
満員電車で押しつぶされている間も、治まることはない。目の前の若い女性が冷たい視線を送ってくるので、目を閉じて深く息を吸う。この状況でおもいきり吐くのは気が引けるので、鼻からそっと、息を逃がす。
気にすることはない。この女性とは、もうきっと出会うことはないのだ。
そう胸に言い聞かせるが、横隔膜は言うことを聞いてくれない。
出ないでくれ。お願いだから。
思えば思うほど、動揺が伝わるのだろうか、肺が大きな音を立てて跳ね上がる。周りの視線が痛い。顔が熱くなり、耳が真っ赤になっていくのがわかる。
人の目がこんなに気になる自分が嫌で、星太朗は窓に映る自分の顔からも目を逸らした。
いつもの数倍長く感じた電車からやっとのことで解放されると、勢い良く改札を出た。あまり嬉しくない解放感に包まれながら、駅前のどさんこ大将で、しょうゆラーメーンを頼む。
壁に並ぶ色褪せた札が全て『ラーメーン』で統一されている。これは校正するべきかどうか。来る度に考えてしまうが、毎回、間違いではないだろうという結論にたどりつく。ラーメーン。それが大将のラーメンなのだ。
「はい、しょうゆラーメン、お待ちどおさま」
ラーメーンじゃないのかい。
心の中でつっこむのもお決まりだ。
職業病なのか、単なる性格なのか、面倒なことばかり考えてしまう自分がまた嫌になるが、ラーメーンを食べると、すぐにそんなことはどうでもよくなってしまう。馴染みの、昔から何一つ変わらない味のおかげだ。
ひっく
十分ほどなだらかな坂をのぼると、つばめ台団地が川沿いに連なっている。四十以上の棟からなる大きな団地で、星太朗が住む〈は‐3〉棟は入口から五分ほどかかる。
団地は、棟と棟の間の余白に、穏やかな空気を溜め込んでいる。その空気は夜になると静まり返り、いつも星太朗の疲れを癒してくれる。けれど今日に限ってはしゃっくりが響いてしまうので、その静けさが余計だった。
タコ山と呼ばれている大きなタコのすべり台も、今は大人しく眠っているようだ。長い冬が終わったことに気付かずに、まだ寒さに足を縮めているように見える。
その横を通り過ぎ、ひんやりと冷たそうな階段をのぼって、実際に冷たいドアを開ける。脱いだ靴を揃えていると、ムッシュのぼやけた声が聞こえてきた。
「おかえり」
「ただいま」
廊下と居間を仕切るガラス戸を開けながら返事をするのも、いつものことだ。古臭い花柄のフロアマットにリュックを置いて、台所で手を洗う。
「ご飯は?」
「食べてきた」
返事と一緒に、またしゃっくりが出た。
「飲んできたの? 珍しいね」
ムッシュはソファの上で分厚い辞書をめくっている。
「いや、駅前で食べてきただけ」
星太朗は麦茶を飲んで、ラーメーン味に染まった口をさっぱりさせる。喉の奥が冷たく潤い、肺にまで爽やかな香りが届く。しゃっくりは止まらない。
「しゃっくり……しゃ、しゃ、しゃ……」
ムッシュは慣れた手つきで辞書をめくっている。手がモコモコしているのに、よく滑らずにめくれるなぁと、星太朗はいつも感心してしまう。
「あったあった。横隔膜の痙攣による異常呼吸。一定間隔で声門が開き、特殊な音を発する現象」
ムッシュは辞典が大好きだ。いつも嬉しそうにページをめくっては、聞いてもいないことを教えてくる。
「へ~、なんかカッコいいね。特殊な音だって。超能力みたい」
グラスを洗う星太朗に、ムッシュは独り言のように話しかける。
「え、発生する原因は解明されていないだって。えー、何それ、不思議だなあ。人類は宇宙の広さだって解き明かしてるのに、自分の胸のことがわからないなんて、不思議だなぁ」
「いや、自分の方が不思議だろ」
星太朗がしかたなくつっこむと、ムッシュは自分の体を見つめてつぶやいた。
「あ、そう……」
ムッシュ以上に不思議なものはこの世に無い。
星太朗は昔からそう思っている。
ムッシュは亡くなった母が作った、コアラのぬいぐるみだからだ。
体の大きさはA4サイズで、ずんぐりむっくり。薄いベージュ(昔はきれいな白だった)のモコモコした毛に覆われている。眉毛も睫毛も無いが、つぶらな黒目はそれだけで意外と可愛い。
赤い靴下で作られた大きな耳は両側にぼよんと垂れて、左耳は青い継ぎ当てをされている。そこに仲良く並んでいるのは星の刺繍。星太朗のマークだ。
左胸には耳と同じ生地の胸ポケットがあり、その下のお腹は丸っこい。
それからなんといっても一番の特徴は、コアラらしい大きな鼻が、ヒゲと一体化していることだ。鼻の先がくるんと左右にはねて、いかにもムッシュ的な立派なヒゲになっている。でもそれは、顔の真ん中にピンで留めてあるだけ。しゃべるとぴらぴら揺れ、めくるとぽかんと開いたおちょぼ口が見える。揺れるのは息を吐いているからだが、その仕組みはまったくの謎。
もちろん、なんでしゃべるのかも、どうして動くのかも謎。
体は間違いなく、布と綿でできているというのに。
これは星太朗の夢や妄想の類ではない。ムッシュの声は他人にも聞こえるし、動く姿は誰にでも見ることができる。
星太朗はそのことを秘密にして、二十年間生きてきた。
次回の更新は、4月29日(土)です!
話すぬいぐるみと出版社校正男子の切なさMAXの友情物語!