弔いの流儀

第一回 念仏を唱える初音ミク

フリー編集者・ライターの速水健朗さんが、「死」を取り巻く現況と向き合う連載の始まりです。競争激しい葬儀ビジネスの現実もあり、かつてと今では死の準備からお葬式のあり方までもが激変しています。現代人は弔いうるか――まずは、その現実の一端を覗いてみましょう。

死を隠す近代化と、再浮上してきた死の市場

 人の死は、本来とてもポピュラーなものです。スタジオジブリの映画を一本も観ずに一生を終える人や、一度もセックスをすることもないまま一生を終える人は存在するでしょうが、一度も死なずに一生を終えることはまず不可能です。

 とはいえ、現代において死がそんなに身近なものとは言えないのもまた事実です。なぜなら、近代化というものとは、死が目に入らないよう日常の生活の場所から閉め出すことだったからです。

 9・11のようなテロはともかく、戦争や民族間抗争による大量殺戮などというものが先進国の都市部を舞台にして行われることは希になっています。もっと日常的な死に関してもそうです。かつては人は自分が住む家で死ぬのが当たり前でした。葬式も家でやるものでした。しかし、戦後になって団地やマンションができた時に、こうした死は想定されずにつくられるようになりました。現代において、死は病院で起こるイベントです。

 僕は子どもの頃、毎年夏休みになると金沢の祖父の家に帰省していました。その祖父の家には仏間があり、立派な仏壇がありました。そして、ご飯の度に仏様の分といって、小さなお椀にご飯をよそってお供えをしました。このように、日本の家においては、死者(ほとけ)は、日常に組み込まれていたのです。ちなみに、このときにご飯をよそうのは、金色の足のついた容器で、「仏飯器」と呼ばれる仏具です。いまグーグルで調べて知りました。

 死が今のように日常からほぼ完璧に姿を消したのは、近代というよりももっと直前、ついここ十数年といったところなのでしょう。先祖という存在をいかに扱ってきたかというのは、日本の家族社会学の重要なテーマです。さらに、古代から人はどう死を扱ってきたかを学ぶと、それは民俗学というものになります。死とは、まさに文明の段階を示し、その文明の特徴を示すものです。このように日常の表舞台から葬り去られた死が、最近では再び日常に戻ろうとしているかのような気にさせられることが増えています。

 例えば、週刊誌の見出しや新書の題名でよく見かけるようになったのは、相続、終活、エンディングノートなどといった死にまつわるものです。この高度老齢化社会において、死はトレンディーなアイテムになりつつあるのです。近代化という作業の中で巧妙に隠され続けてきた死が、再び価値のある情報として、社会の前面に立ち現れてきた。そんな皮肉な現象が、現代に起きているような気がします。

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この連載について

弔いの流儀

速水健朗

消費社会において「死」はどのように扱われていくのか? さまざまな弔いのかたちに光をあて、急変する葬儀を取り巻く環境を人気ライターが追います。古くて新しいテーマである「死」を考える一助として、お読みください!月2回更新予定(休載中)

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