第一章 生き返った男 2 傷痕(後編)

「自分は“土屋徹生”だ」と訴え続ける徹生。医師から妻について聞かれ、ここ数日感じていた不安を考え始めた。自分が生き返ったことを、妻はどう思っているのか。妻である土屋千佳も、夫である徹生が生き返ったという事実に困惑し、どう受け止めればよいか迷っていた。平野啓一郎さんの小説『空白を満たしなさい』が、3章までの限定公開です。

「先生を騙そうとか、そういうのじゃないんです、決して。それだけは信じてください。そんな馬鹿なことがって、僕だって思いますよ。思いますけど、……」
 そう訴えている途中で、徹生は寺田が、頻りに自分の口許を凝視しているのに気がついた。食べ物でもついているのかと、手で拭いながら、その感触に目を瞠った。

「そうだ、この下唇の傷の痕、覚えてませんか? 高校の柔道の時間に、受け身を取らずにがんばり過ぎて、顔から畳に突っ込んで出来た傷です! 前歯が貫通して五針も縫って。これですよ! こんな傷、僕以外にないですよ!」
 徹生は下唇を指で摘んで、引っぱって見せた。寺田は、喰い入るようにそれを見ていた。その一点を頼りに、徹生の顔に、もう一度、記憶の中の顔を重ねようとしていた。

「覚えてるんじゃないですか?」
 寺田の目は、急に虚ろになった。無意識らしく首を捻ると、聴診器が掛かっているうなじの辺りを搔いて、何か独り言を呟いた。そして、徹生の問いには答えずに、

「奥さんは、『泣いて悲しんだ』と言われましたか?」と探るように訊いた。
 徹生は、「え?」と、今までとは違う戸惑いを見せた。

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空白を満たしなさい

平野啓一郎

cakesでもインタビューを行った、平野啓一郎さんの小説『空白を満たしなさい』(講談社)が、3章までの限定公開です。年間約三万人の自殺者が出るこの国で、生と死、そして幸福の意味を問う意欲作。平野さんの考えた概念「分人」をまとめたcak...もっと読む

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