「先生を騙そうとか、そういうのじゃないんです、決して。それだけは信じてください。そんな馬鹿なことがって、僕だって思いますよ。思いますけど、……」
そう訴えている途中で、徹生は寺田が、頻りに自分の口許を凝視しているのに気がついた。食べ物でもついているのかと、手で拭いながら、その感触に目を瞠った。
「そうだ、この下唇の傷の痕、覚えてませんか? 高校の柔道の時間に、受け身を取らずにがんばり過ぎて、顔から畳に突っ込んで出来た傷です! 前歯が貫通して五針も縫って。これですよ! こんな傷、僕以外にないですよ!」
徹生は下唇を指で摘んで、引っぱって見せた。寺田は、喰い入るようにそれを見ていた。その一点を頼りに、徹生の顔に、もう一度、記憶の中の顔を重ねようとしていた。
「覚えてるんじゃないですか?」
寺田の目は、急に虚ろになった。無意識らしく首を捻ると、聴診器が掛かっているうなじの辺りを搔いて、何か独り言を呟いた。そして、徹生の問いには答えずに、
「奥さんは、『泣いて悲しんだ』と言われましたか?」と探るように訊いた。
徹生は、「え?」と、今までとは違う戸惑いを見せた。
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