“関関同立”はいつ生まれたのか?

"関関同立""産近甲龍"といった″大学のくくり”を調査を進めるうちに"関関同立”がある大学を応援するために創られたキャッチコピーだったとつかんだコピーライターの川上徹也氏。”関関同立”はいつ、どのようにして生まれたのか? 知られざる逸話、本邦初公開!

誕生秘話を取材に大阪へ

 近畿大学からの依頼で、大学の“くくり”の由来を調べることになった。 まずは、“関関同立”というフレーズから由来を調べてみることにした。 “関関同立”とは、「関西大学」「関西学院大学」「同志社大学」「立命館大学」という関西の難関四私大のことをさす。

 このフレーズの歴史は古い。私の記憶では1970年代後半には、関西では既に定着していたと思う。しかし、なぜこの順番なのだろう。伝統や偏差値から言えば、同志社の同が先頭に来てもいいはずではないだろうか。

 例えば、wikipediaの“関関同立”の項には「関関同立という言葉は戦後まもなくから通用しており、大学受験生向けの月刊雑誌である蛍雪時代や、昭和30年代の広辞苑に早くもこの項目が建てられている」とある(2017年3月15日14時最終確認)。 本当だろうか?

 手元にある広辞苑(第六版)をひいてみたが発見できなかった。念のため私は、地元の中央図書館に行き、書庫から広辞苑第一版(昭和30年5月25日発行)、第二版(昭和44年5月16日発行)を出してもらい、いろいろな項目で調べてみたがやはり発見できなかった。

  また蛍雪時代の元編集者への取材から、「“関関同立”というフレーズは、昭和40年代に大阪の夕陽丘予備校の創設者である白山桂三氏が考案し、のちに蛍雪時代でも使うようになった」という情報を手に入れた。野球などのスポーツの対戦で「同立戦」「関関戦」などのフレーズは古くからあったにせよ、大学の難易度による“関関同立”という“くくり”は、大阪の予備校が発祥であることはまず間違いないであろう。

 白山氏は既に亡くなられているが、この経緯に詳しい夕陽丘予備校の現校長である窪津典明氏が取材を受けていただけることになり、私は大阪に向かった。

 大阪のミナミのさらに南、天王寺駅の近くに夕陽丘予備校はある。私自身、生まれも育ちも天王寺駅近くの阿倍野区で、高校はこれまたすぐ近くの今宮高校に通っていた。 事前にそんなことを話していたことも効いたのか、窪津校長はとてもフランクに私を迎えていれてくれた。


天王寺駅近くの夕陽丘予備校

“関関同立”の命名は夕陽丘予備校の創設者 白山桂三氏

 創設者の白山桂三という人は、とても魅力のある人物だったらしい(故人なのでここから敬称略)。 旧制大阪高等学校から東京帝国大学に進み、高校教師になる。昭和27(1952)年、大学に受からなかった生徒たちを、難波でトタン屋根の校舎を建てて教えだしたのが、夕陽丘予備校のルーツだ(当時は浪速予備校という名称。のちに夕陽ケ丘の地に移転してから現名称に)。

 その後も白山は「青年は宝だ」「若者を育てないと日本の未来はない」という信念の下、受験勉強だけでなく人間教育にも力を入れた。その結果、夕陽丘予備校は普通の予備校とは違うユニークな存在になっていく。普通、予備校は、大学に入学してしまえば、寄りつくような場所ではないが、夕陽丘予備校は、大学生になっても社会人になっても白山桂三を慕って卒業生が学校に集まってきたという。

 現校長の窪津氏もそんな白山桂三門下生のひとりだ。高校生時代、家が経済的に苦しかった窪津氏は、夕陽丘予備校でバイトしながら国立大学を受験したが失敗。私立大学には行けるような経済状況ではなかった。 すると白山は窪津氏にこう言ったという。

「大学行くだけが人生ちゃうぞ。うちに就職せぇ。大学の4年で学ぶようなことは全部俺が教えてやる」

 この言葉に窪津氏の心は動き、大学に行かずにそのまま夕陽丘予備校に就職した。そして白山の秘書的な役割から始まって夕陽丘一筋四十年以上、現在の校長に至るという。

 予備校の先生が「大学行くだけが人生ちゃう」というのが痺れる。 ええ話や。しかし、私は夕陽丘予備校の「ええ話」の取材をしにきたわけではない。 そう“関関同立”のルーツを聞かなければ。


夕陽丘予備校校長の窪津典明氏

“関関同立”の初登場は昭和46(1971)年

 まず窪津校長が私に見せてくれたのは「創立三十年夕陽丘予備校史」(1981年発行)という本だ。その中に、当時大阪新聞記者だった宮本守正氏が寄稿した「『大学へアタック』を始めた頃」という文章の中に、“関関同立”というフレーズが誕生したきっかけが書かれているという。早速、読ませていただいた。

 大阪新聞とは、かつて大阪府を中心として発行されていた夕刊地方新聞で、産経新聞の夕刊的位置づけだった。「大学へアタック!」をはじめ教育・受験関係の記事が充実していることでも有名だったらしい。宮本氏は、昭和45(1970)年秋、産経新聞社から大阪新聞社に出向して受験記事を書かなくてはならなくなり、当時受験界では有名人だった白山桂三から色々とアドバイスを受けた。その中に、以下のように白山から言われたというエピソードが載っている。

「4つの私立大が、関西では入試レベルも高く、人気もある大学で、これを総称して“関関同立”と言うことにしようや。『大学へアタック!』で流行らせや」

 この発言の日時がいつかは書かれていない。おそらく昭和45~46年頃であろう。

「“関関同立”という言葉が初めて大阪新聞に登場するのは、昭和46(1971)年10月14日日曜日です」と窪津校長は断言した。

 なぜ、そんな詳細な日付がわかったのか?

 窪津校長はこの日の取材のために、厖大な量の当時の新聞記事を産経新聞社に頼み、マイクロフィルムを焼いてコピーしてくれていたのだ。さらに時系列ですべての記事をチェックし、初めて“関関同立”の文字が出てくる記事を確認までしてくれていた。

「関東からわざわざ取材に来てくれるんやから、何かお土産がないとあかんと思いまして。それにこんな機会でもないと、きちんと調べることもないし」

 と窪津校長はことなげにいうが、本当にありがたいことだ。こういう所に白山イズムが生きているということだろう。

 私は差し出された昭和46(1971)年10月14日の大阪新聞の記事のコピーに目をやった。全体のタイトルは「消極的な受験動機」というもの。記事の署名はないがおそらく前述した記者の宮本氏が書いたものだろう。「関西大学の学生生活実態調査」から記事は書かれていて、当大学の受験動機で一番多かったのが「すべり止め」や「何となく」といった消極的動機が多いことを問題にしている。そしてこの問題は関西大学だけでなく、関学・同志社・立命など私立大学に共通する問題だと言うことで、全国進路研究所所長で夕陽丘予備校校長の白山桂三の談話として以下のような文章が載っている。

「第一志望に入れなかったなんて言いだしたら、東大を希望したがワンランク落として京大へ行っても同じ。こんなことで悩んでいたらキリがない。関関同立に合格したら就職面でも高い評価を受けている大学なのだから、何も悩むことがないのではないか。入学後それなりに努力する以外方法はないのではないか」

 これこそが、記念すべき“関関同立”という“くくり”が初めて世の中に出た記事だという。

 この記事を皮切りに、大阪新聞の「大学へアタック!」のコーナーでは、徐々に“関関同立”という言葉が登場してくるようになる。 最初は白山が寄稿したり発言したりする記事にだけに見られるフレーズだったが、昭和50(1975)年くらいには受験生などを中心にかなり浸透していき、他の予備校でも使われるようになっていった。 その後、予備校などに関関同立コースや関関同立模試などが誕生していき、一般に広く浸透していくようになったのだ。


窪津校長に用意いただいていた資料

“関関同立”はある大学を応援するために作った

 では、なぜ、白山桂三は“関関同立”というフレーズを流行らせようとしたのだろうか? その疑問を窪津校長にぶつけると「これはテープ止めてもうてオフレコでないとしゃべれません」と言う。

 今まで、東京の週刊誌をはじめ、色々な所から取材があったがすべて断ってきたという。 それはますます聞きたい。私はICレコーダーを止めて聞くことにした。 フーン、なるほど…そういうことだったのか!

 これはぜひ書かせてもらいたい。私は粘った。 「もう時効だし、大阪の大学を応援するという大義もあるから記事にしてもいいんじゃないですか?」 すると窪津氏は「確かにそうですね。白山はもう故人ですし。私が考えたわけでもないですから」と、記事にすることを了承してくれた。

 窪津校長の話をまとめると以下のようになる。

「当時の関西の私立大学の評価では、京都にある同志社・立命館、兵庫にある関西学院の3大学が飛び抜けて高くて、大阪にはこれぞ、という私立大学がなかった。言うたら大阪の優秀な高校生が京都や兵庫の大学の草刈り場になっている。夕陽丘予備校は大阪の予備校です。だから本来、大阪の大学を盛り上げるべき役割があると、白山は考えていたんです。さらに関大のバンカラな校風も好きやった。ただ正直言うと、当時の関大はマンモス校というだけでイメージは高くなかったんです。そこで難関四私大ということで上記3校に関西大学を入れ“関関同立”というフレーズを作れば、関大の相対的なポジションも高まるだろうと思って作ったと聞いています。だから順番も関関同立にした。もちろん語呂のよさもありますけど、関西大学が先頭に来ることも大切だったわけです。見てください、“関関同立”は五十音順なんです。関西学院大学の正確な読みは“くゎんせいがくいんだいがく”ですから、関西大学の方が前に来る。『五十音順に並べただけですわ』と言われたら誰からも文句つけられへん。白山も思いついた時は『うまいこと考えたな』と思たんちゃいますやろか」

 つまり“関関同立”は、白山桂三が関大を応援するために考えたフレーズだというのだ。 だから当然、同じグループにされた他の三校、特に同志社は関関同立という“くくり”を嫌がっていたらしい。

「でもこのフレーズができて関西では私立大ブームがおこったんです。それまで、国公立でないとあかんていう風潮が強かったんですが、関関同立がブランド化されて品質保証的なものが生まれたんです。だからうちも当時は関大受験に力を入れました。学生から『関大通ったんはええけど、学校始まってまわり見渡したら夕陽の同級生ばっかりや』なんて言われたこともあるくらいです」

 たったひとつの“くくり”が受験シーンを大きく変えたのだ。(次回に続く)

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大学の“くくり”はどのように生まれたのか?

川上徹也

関関同立、MARCH、日東駒専、産近甲龍……受験シーンと大学のブランドを規定している、大学の「くくり」。こうした「くくり」はなぜ生まれたのか? コピーライターでブランディングを得意とする川上徹也氏が、くくりが生まれた経緯を探る。

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コメント

statsbeginner “夕陽丘予備校は大阪の予備校です。だから本来、大阪の大学を盛り上げるべき役割があると、白山は考えていたんです。さらに関大のバンカラな校風も好きやった。” 2日前 replyretweetfavorite

tobu0 読んでる: 5ヶ月前 replyretweetfavorite

over_the_waves こら、おもろいわ 8ヶ月前 replyretweetfavorite

le_grand_juran 黒幕は関大だったという…… 9ヶ月前 replyretweetfavorite