第一章 生き返った男 2 傷痕(前編)

会社の会議室で生き返った徹生。その時の事を詳細に話すが、「人間は、生き返ったりしませんよ」と冷淡に言う医師に対し、腹が立った徹生は、ここにいる自分は何なのかと問う…。平野啓一郎さんの小説『空白を満たしなさい』が、3章までの限定公開です。

2 傷痕

「……落ちる!」

 真っ暗闇の中で恐怖に駆られた瞬間、徹生は、パイプ椅子の上で、前に傾いた体を跳ね上がらせた。

 あの日、彼が目を醒ましたのは、会社の5階の狭い会議室だった。

 水の泡が弾けるように、パッと瞼が開いて、曖昧に霞んだ視界に光が灯った。

 最初に目に入ったのは、自分の両手足だった。グレーのズボンを摑んで、拳が二つとも握り締められている。

 心臓が、肋骨の檻にぶつかりながら、出してくれ!と、叫んでいるかのように暴れていた。

 顔を上げた先のホワイト・ボードには、「新しさと懐かしさ」という製品コンセプトらしい言葉が走り書きされている。下線を引いて、トンと最後に点を打つのは、部長のクセだった。

『……寝てたのか。……いつから?』

 腕時計に目を凝らすと、なぜかガラスに罅が入っていて、針は3時14分で止まっている。どこでぶつけて壊したんだろう? ブラインドの上がった窓には、室内にぽつんと一人残された彼の姿が映っていた。壁の時計は、10時を回っている。朝ではなく、夜だった。

 しばらく考えてから、徹生は、頭を強く振った。何も思い出せなかった。額に手を当てて、何の会議だったんだろうと首を傾げて、「……アレ?」と、笑みを強張らせた。

 幾ら考えても、記憶は、今し方の目醒めの直前までしか遡れなかった。

 うたた寝の最後に訪れる、あの真っ逆さまに、奈落の底に落ちていくような恐怖感。

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空白を満たしなさい

平野啓一郎

cakesでもインタビューを行った、平野啓一郎さんの小説『空白を満たしなさい』(講談社)が、3章までの限定公開です。年間約三万人の自殺者が出るこの国で、生と死、そして幸福の意味を問う意欲作。平野さんの考えた概念「分人」をまとめたcak...もっと読む

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sadaaki 『空白を満たしなさい』の試し読みの続きも公開。まだのかたはぜひ最初からどうぞ! 約5年前 replyretweetfavorite