なんでこういうことが起きているのか。なぜ街に対する感覚がこんなに変わってきているのかを、ちょっと歴史を振り返って考えてみると、もともと集合住宅、マンションとかアパートって昔は無かったですよね。集合住宅と言われてイメージするのは、だいたい鉄の扉がならんだ味も素っ気もないマンションだと思うんだけど、これは近代以降に登場したんですね。19〜20世紀、日本で言うと明治くらい。江戸時代まではこんな家はもちろん無くて、集合住宅に住むようになったのは戦後です。1950年代に、日本ではじめての分譲マンションが四ッ谷にできて、それ以降60〜70年代に多摩ニュータウンとか高島平とかいろんなところに団地やマンションが建って、そういうところに住む人が増えてきた。でも、元々の家ってそんな構造じゃなかったですよね。
いきなりですが2000年くらい遡ります。
古代ギリシャまで遡ると、家の奥のほうに寝室や台所などのプライベートなエリアがあって、道に面しているところにはそういうものはない。街路に面しているところを「男の空間」と呼び、奥のプライベートな空間は「女の空間」と呼ばれていました。「男の空間」というのはどういうものだったのかというと、本のなかには絵がないのでスライドで説明しますが、サロンみたいになってたんですね。当時の人たちは、ご飯は座ってじゃなく寝て食べていた。ローマもそうなんですが、寝椅子みたいなのがあって、そこに横たわって、客人なのか勝手に入って来たのかわからないような人たちがいて、だらだら食事をとりながら民主主義についての議論などをしていた。この空間を「閾」と言います。プライベートな空間とパブリックな空間との間にもう一つ空間があって、誰もが入れるけど、決して完全に公ではないという中間地帯があった。これはギリシャだけではなくて、日本にもありました。
ここ、何て言うか知ってますか? 年配の人はご存知かと思いますが、「上がり框」と言うんです。土間のところにある、ちょっと腰掛けられるところのことを指しています。昼間はほとんど玄関に鍵を掛けない。近所のおばちゃんが勝手にがらがらっと開けて入ってきて、上がり框に勝手に野菜置いて帰るみたいな、そういうのが普通だった。土間と上がり框って、プライベートでもなければパブリックでもない、中間地点だったんです。そしてここが、人と人とをつなぐ場所になっていた。鍵のかかる現代のマンションでは、近所のおばちゃんも勝手に入ってきて野菜を置けないですよね。昔はそれが可能だった。そんな風に、住まいに共同体があるのが昔は普通だったんです。昭和の時代に集合住宅がどんどん広がってなくなってきちゃったんだけど、なくなりつつあるなかでもいろんな努力がされていて、「やっぱり住まいに共同体は必要だよね」と思っている人はたくさんいた。典型的なのが住宅公団、いまのURです。住宅公団は、戦後たくさん団地をつくりました。どういう団地かというと、今みたいにエレベーターでフロアごとに切られているんじゃなくて、ふりわけの階段があるんです。このふりわけの階段のことを、かつて住宅公団の用語で「縦長屋」と言ったんです。要するに、長屋が縦になっている。4階に住んでいる人は1階、2階、3階と上がって行きますから、それぞれの家の人たちがどんな家族構成かもわかるし、かならず挨拶する。この縦の階段を、新しい戦後の集合住宅のなかで、共同体みたいなものとしてつくりあげたい、という願いがあったみたいです。
1981年に出た『箱族の街』という、もう絶版になっている本があります。埼玉県の上尾に、70年代に大きな団地が出来て、そこに移り住んだノンフィクション作家が書いた、ドキュメンタリーというかノンフィクションなんですけど、このなかに、引っ越したらいきなりその縦長屋の5階分10世帯が集まって集会をするシーンが出てくる。そのコミュニティに対する期待感というのがあったんですね。でも、こんなコミュニティを無理して作るんだったら、昔の上がり框、土間のある家でいいのでは、と思うのですが、そもそもなぜ集合住宅がこんなに広まったのか。
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