消えた歴史
2017年に戻った俺は、六本木のオッサンの部屋に転送された。
強制終了の場合、最初にスリップした地点に戻るというメカニズムのようだ。
俺が1978年に過ごした時間は、およそ1ヶ月ほどだった。その間、2017年では数分ほどしか経過していなかったらしい。
部屋で待っていたオッサンは開口一番、「うまくいったか?」と訊いた。
身体のことを心配する素振りなど一切ない。それはそれでオッサンらしいと思った。
俺は山ほど報告したいことがあったが、まず、ひとつだけ答えた。
「うまくいったかどうかはわからないが、収穫はあった」
オッサンは腕を組んで訊く。
「由里子の失踪についてか」
俺は首を横に振った。
「彼女が消えた理屈は、まだわからない。でも、すごい歴史の始まりを、この目で見られた。すごい男に会えたよ」
オッサンは表情を変えずに言った。
「僕はお前に、時間旅行を楽しんでもらいたくて仕事を頼んだわけじゃないぞ」
「わかってる。由里子の消えた原因は、必ず突き止める」
俺の手に、まだ西島のコップの感触が残っている。
指を何度か開いて、ギュッと結んだ。
「もう一度、タイムスリップするよ。でも疲れた。少し休ませてくれ」
N刑務所から出所したばかりの俺の住まいは、杉作くんの実家だった。
厳密に言うと、彼の親が持っている安アパートの一室だ。八畳の角部屋が杉作くんの部屋で、隣の六畳を俺のために格安で貸してくれている。築40年の古いアパートだ。壁は薄くて、隣の部屋の音が筒抜けで聞こえる。
かつては、シャンデリアのある高層タワーマンション暮らしだった。傍から見たら落ちぶれたように見えるかもしれないが、俺には充分。もともとオッサンに会うまでは、同じぐらいか、もう少し汚いアパートで生活していたのだ。
六畳ひと間、ガスコンロ1台、窓ひとつ、エアコン無し……逆に懐かしくて落ち着ける。
杉作くんは身元引受人になってくれたし、住むところの手配までしてくれた。感謝が尽きない友人だ。
「へぇぇ……西島和彦って、そんなにイケてる人だったんすねぇぇ」
杉作くんは俺の部屋で、夜食のカップラーメンをすすりながら感心した。
俺は杉作くんにだけ、タイムスリップの事実を明かした。
オッサン以外に、俺の行動をサポートしてくれる味方が、ひとりはいないとまずい。何かあったときにフォローアップが必要になるかもしれないと考えたからだ。
杉作くんはぜんぜん疑いもしないで受け入れ、1978年に見てきた出来事も、目を輝かせて聞いてくれた。柔軟性があるというか、素直というべきか。何にしても助かった。
「いいなぁ藤田さぁん。収監に続いて、また普通じゃ経験できないことを経験してきて」
「皮肉なの?」
「とんでもなぁいですよぅ。若い頃の西島さんとか、ビンセント・ゲイツに会えるなんて、少しでもパソコンかじった人間なら裏山すぎです──」
「ビンセントはともかく。西島さんって、そんな有名なのか。俺、オッサンに聞くまでほとんど知らなかったんだよ」
「マジっすかぁ。たぶん堀井さんと同じ繰り返しになりますけどぉ、IT界の巨人のひとりですよぉ。歴史の重要度で言えば、ハードバンクの孫正治とか極楽天の四谷浩志に並べてもおかしくないぐらいですぅ」
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