整合性に欠ける場面が出てくる
芸能人の浮気を赤の他人が死に物狂いで糾弾する光景に象徴されるように、そこかしこで「不寛容な時代だ」と叫ばれているが、私たちは、どういうわけか、叶姉妹とGACKTには寛容である。どうしてあれほどの裕福な生活を維持できるのか、その実像を問い詰めたいと考える人は多いのだが、それは問い詰めちゃいけないよと事情通ぶる人の数がそれを上回る。事情通ぶる人というのは、日頃、糾弾の餌をいくらでも撒いてくれるのに、この2つの題材に対してはベクトルが反転する。
GACKTは常に、どう対応するのが一番GACKTっぽいかを選び抜いている。ナルシスティックな表現者ならば当然の作法と言えるのかもしれないが、GACKTの場合、その対応によって整合性に欠ける場面が出てくる。例えば昨年11月、『TOKIOカケル』に出演したGACKTは、自分は1日1食しか食べないから「朝のコーヒーの時間って死ぬほど大切」とし、その時間を乱されるのが許せないと語った。「僕、時計持っていないんですよ。だから全ての時間(管理)をスタッフに任せている」と、世が定める時間なんかに拘束されないワイルドな生活を伝えてTOKIOを驚かせたのだが、今年1月に出演した『芸能人格付けチェック!』では腕時計をしており、ダウンタウンの浜田雅功から「どこの時計なん?」と問われると、「ロジェです。6000万くらい」と即答している。いやはや、我ながら不寛容な指摘である。
「超のつく言葉が嫌い」と「超はしゃいでるしさ」
『TOKIOカケル』では、言葉遣いの悪い女性が嫌いで、そういう女性に対しては「鼻に指入れますよ」と言って笑わせる。自伝『自白』にもその旨が書かれており、「生理的に受け付けない言葉は『腹減った』『飯』『食った』。このたぐいのことを女性に言われると、もうダメだ。鼻にボールペンを突き刺してやろうかという、気になってくる」とある。
男女問わず、最近の日本人の会話に「超のつく言葉が飛び交う」のがとにかく嫌で、そこにいるだけで気分が悪くなると書いているのだが、GACKTのブログを読み返していくと、「人の気も知らないで巧は超はしゃいでるしさ」(2015年6月5日)、「さあ、一緒に遊ぼうぜ。超本気でさ。」(2014年11月14日)と、ご自身が率先して「超」を使っていたりもする。引き続き、不寛容な指摘ではあるのだが、あらゆる芸能人の中でも、イメージの保持を大切にしていると思しき人にしては、この手の揺らぎがすぐに見つかる。