日本語ラップの〝歴史〟はいつ始まったのか

「ラップの言葉はどこからやってきてどこへ向かっていくのだろう」ーー「日本語ラップ」の歴史をはじめてひもとく、音楽ライター・磯部涼さんによる新連載2回目。今回はB-BOYパークから今はラジオパーソナリティとしてもおなじみ、宇多丸が日本語ラップ史において果たした役割について。同日公開の「日本語ラップの言葉はどこからやってくるのか――まえがきにかえて」もあわせてお読みください。

 そこは、彼らにとっての約束の土地だった。1999年、8月22日。東京を代表する消費地区・渋谷の、54ヘクタールという範囲を占める代々木公園。木々が生い茂り、芝生が広がり、池には満々と水を湛えるが、日本においては、こういった都会のオアシスでさえも夏は決して心地の良い季節とは言えない。空気中の湿度が沸き立ち、文字通り茹だるような暑さの中で過ごそうとする者は少なく、コンクリートの城に閉じこもって、エアーコンディショナーの排気で街の熱をさらに上げていく。また、暑さは日が沈んでも収まる気配はなく、今日も熱帯夜がやってくる。しかし、公園の南側にある広場に集った若者たちは活き活きとしていた。彼らは群衆の中に知人を見つけると、生き別れた兄弟に再会したみたいに声を上げ、握手をし、逆手に組み直すとお互いの身体を引き寄せて肩をぶつけ合い、最後に拳を打ち付けた。その、日本の慣習からすると奇異に思える派手な身振りは、パートナーを変えながら至るところで繰り替えされていて、通り掛ったひとは、まるで異なる部族の集会に紛れ込んだ気持ちになったことだろう。

 ただし、そこにいるほとんどが日本人のようだったが、ファッションの統一感もまた部族を思わせた。男はベースボール・キャップを被ったり、頭にタオルを巻いたりしていて、上はエクストラ・ラージのTシャツ、下は膝小僧が隠れるぐらいのショーツ、足元は真新しいスニーカーという格好が標準だ。女は焼けた肌を露出したセクシーなタイプもいるものの、やはり、オーヴァーサイズのバスケットボール・シャツなどを着たボーイッシュなタイプも多い。そんな若者たちがたむろする広場にはドームがついたステージがあって、スプレー缶で描かれた巨大な絵画が飾られている。日中はその前で、格闘技や呪術かと見紛う動きが繰り広げられていたが、それは、ミキサーと2台のターンテーブルを素早い手捌きで操作してつくり出すパーカッシヴなビートに合わせて行われる、ダンスだった。やがて、パートが移り、今度はそのビートの上で、歌というよりは語ったり、会話をしたり、煽ったりしているようなパフォーマンスが次々と繰り広げられた。しかし、それもまた決して出鱈目ではなく、巧みに押韻が行われ、統制が効いた表現だった。そして、すっかり日が暮れた頃、ステージにひとりの男が現れると若者たちの盛り上がりは最高潮に達する。彼の声がサウンドシステムで拡張され、広場に響き渡った。

知っておきなよ HIP HOPシーン 日本に育つヒストリー
日曜日 おれを筆頭に STREETのHEROはB-BOYS
四角いマット 男のRING 本格派だけに少人数
今や誰もが口にする B-BOYS この街のKING
愛してるチーム RSC 変えていくシーン
君のはいてるジーンズやプーマ、アディの理由は何?
ファッションばかりじゃまだ甘い オンリーワン
オリジナル マネじゃなく スニーカーに有り金はたく
さらに開拓 未知の可能性 君を誘うぜ
(*1)ライムスター『リスペクト』収録、「「B」の定義 feat. クレイジー・A」(NEXT LEVEL RECORDINGS、99年)より

 日本のラップ・ミュージックの歴史はいつ始まったのだろうか? 同文化の歴史について考察する書籍は、そのような問いから始まるべきなのかもしれない。しかし、結論から言えば、それに対して明確に答えることは難しい。何故なら、答えは無数に存在するからだ。もしくは、〝歴史〟が歴史化という欲望の表出で、そのヴァージョンが無数に存在するのであれば—そして、論争の結果、勝ったものが正史として語られていくのであれば、むしろ、こう問うべきだろう。日本のラップ・ミュージックの歴史はいつから今のような語られ方になったのだろうか? と。

 〝フロント〟—前線、と名付けられた、代々木公園に集う若者たちがバイブルとして読み込んでいた雑誌の、97年10月号の冒頭には、辛辣な言葉が掲載されていた。それは、『Jラップ以前~ヒップホップ・カルチャーはこうして生まれた』という書籍のレヴューで、ライターのクレジットには佐々木士郎とある。ライムスターでラッパー=MCシローとして日本語によるライミングを探求し、『フロント』を始めとする音楽誌で批評家=佐々木士郎として日本のラップ・ミュージックを体系付けていた彼は、書く。「まだまだ未検証の部分も多い〝ヒップホップ日本史〟を補完する試みとして、現在この手の出版物が果たすべき役割というのは非常に大きいし、またそのぶん、責任も重大と言える」。しかし、「〝現在のシーン〟と直接的な連続性を持っている[…]流れ」が、「ここでは完全に黙殺されている」と。そのような傾向は「これまでに文章化された多くの〝日本史〟同様」(*2)だと評していることからも、佐々木のフラストレーションは伝わってくるだろう。(*2) 『フロント』97年10月号(シンコ―ミュージック)より

 そんな、佐々木曰く、90年代後半に至るまでの日本のラップ・ミュージックにおける偽史の典型である『Jラップ以前』はこんなふうに始まる。

 若者が獲得し、のちに「文化」という称号を大人たちから授かることになるできごとのおおよそは、その初期の段階で、ごく少人数の先端的な人々によってもたらされる。
 ラップ、DJ、ブレイクダンス、グラフィティアートに代表される、いわゆるヒップホップ・カルチャーはNYの貧しい黒人たちの間から生まれてきたものとされている。それらはアメリカあるいはNYという、黒人が置かれた特殊な社会環境のなかで必然的に培われた「文化」である。
 そうした、きわめて民族性の強い「文化」がどのような形で流入し、日本の若者に支持されるようになったのだろうか。

(*3)『Jラップ以前~ヒップホップ・カルチャーはこうして生まれた』(TOKYO FM出版、97年)より

 そして、同書は〝先端的な人々〟である12人へのインタヴューを基に歴史を編んでいくが、そのメンバーは以下のようなものだ。いとうせいこう(ラッパー/作家)、近田春夫(ミュージシャン)、高木完(ラッパー)、鈴木賢司(=ケンジ・ジャマー、ギタリスト)、屋敷豪太(=GOTA、ドラマー/プログラマー)、小玉和文(トランペット奏者)、ECD(ラッパー)、川勝正幸(エディター/ライター)、ダブマスターX(DJ/PAオペレーター/エンジニア/リミキサー/プロデューサー)、東海枝尚恭(イベント・プロデューサー)、中村有志(=ファンキー・キング、俳優)、横山和幸(=パンプ横山、ファッション・デザイナー)、吉岡孝司(プロデューサー)、ランキン・タクシー(レゲエ・DJ)。

 まず、ヒップホップの歴史書だと謳っているのにも関わらず、肩書きに、先の引用で同文化の代表的な要素だとされていたラッパーやDJが少ないことに目が行くが、ましてや、グラフィティ・アーティストやブレイクダンサーに至っては影も形もない。むしろ、同書が描くのは、82年、神宮前にオープンしたライヴ・スペース<ピテカントロプス・エレクトス>で彼らが様々な音楽的実験を行う中、その素材のひとつとしてヒップホップ・ミュージックが使われたということであり、88年、彼らの一部が立ち上げたレーベル<メジャー・フォース>が、日本のラップ・ミュージックのプラットフォームのひとつとなったということである。また、「〝Jラップ〟以前」というタイトルには、出版当時の状況が反映されている。

 93年11月—それまで、アンダーグラウンドが主戦場で、時折、ノベルティ・ソングにその要素が取り入れられるぐらいだった日本のラップ・ミュージックに、光が当たることになる。ところが、姿を現したのは意外な人物だった。ブラックコンテンポラリーを志向していた富樫明生が、m.c.A・T名義でレイヴ・ミュージックにラップを乗せたシングル「Bomb A Head」をスマッシュ・ヒットさせたのだ。しかし、シーンではまったく知られていなかったこの怪し気な男が〝Jラップ〟というキャッチーなラベルを普及させたことで、ようやく、人々はラップ・ミュージックというジャンルを認知する。そして、その時流に乗るようにして、94年3月には、ポピュラリティを獲得していた殆ど唯一のグループであるスチャダラパーが、シンガーソングライターの小沢健二と共作したパーティ・ソング「今夜はブギーバック」を発表。8月にはスチャダラパーと同世代のイースト・エンドが、アイドルの市井由理ことYURIをフィーチャーして日常生活についてラップした「DA.YO.NE」を発表。結果、2曲はヒット。特に後者は、95年、日本の音楽エンターテイメントの頂点である年末のテレビ番組「紅白歌合戦」で披露されるまでになる。

 しかし、アンダーグラウンドでは、Jラップと真逆のベクトルの運動も起こっていた。例えば、ムロ、ツィギー、 P・H・フロン、マサオという4人のラッパーと、GOというDJからなるマイクロフォン・ペイジャーは、93年3月に発表した「改正開始」で、「行くぞ やるぞ 書くぞ 韻を踏むぞ/なくそう お笑いくさいイメージをなくそう」—つまり、現在の日本のラップ・ミュージックはライミングという基礎もなっていなければ、ノベルティじみている、だからオーセンティシティに欠けるのだと切り捨てる。そして、最後のヴァースでムロは、憤る他のメンバーたちをなだめつつ宣言する。「今に本場のやつらが認めてくれるような 日本語ラップ 改正開始しよう」(*4)。後年、佐々木は、92年の暮れに「改正開始」を収めたマイクロフォン・ペイジャーのデモ・テープが出回り始め、彼らの言葉に煽られるようにしてハードコアなラップを志向するムーヴメントが起こったと、自身のグループ、ライムスターもそのひとつだと振り返っている(*5)
(*4) コンピレーション『REAL TIME COMPACT』収録、マイクロフォン・ペイジャー「改正開始」(日本コロムビア、93年)より
(*5) リアルサウンド編集部『私たちが熱狂した90年代ジャパニーズヒップホップ』(辰巳出版、16年)

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日本語ラップ史

磯部涼

「フリースタイルダンジョン」や「高校生ラップ選手権」の流行、メディアでの特集続き……80年代に産声を上げた「日本語ラップ」は現在、日本の音楽シーンにおいて不動の位置を占めるものとなりました。いとうせいこうらの模索からはじまり、スチャダ...もっと読む

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コメント

hontuma @4munou あと、このへんとか。 https://t.co/yJhS80xOVR このへん。歴史の話は今無理に読む必要ないと思うけど、川崎の連載はラップのこといっぱい出てくるから面白いと思う。 https://t.co/U1yS2200SQ 約3年前 replyretweetfavorite

Kawade_bungei 磯部涼さん新連載2回目。今回はB-BOYパークから今はラジオパーソナリティとしてもおなじみ、宇多丸が 3年以上前 replyretweetfavorite

akathea_ 面白かった - 日本のラップ・ミュージックの〝歴史〟はいつ始まったのか 3年以上前 replyretweetfavorite

campintheair すごくおもしろかった! 「日本のラップ・ミュージックの〝歴史〟はいつ始まったのか」。ヒップホップ批評と宇多丸さんの話。 https://t.co/IYqB2JALFQ 3年以上前 replyretweetfavorite