第2章 型破り
1978
数秒か、数時間か。どれぐらい飛んでいるのか、わからなかった。
時間という概念が、意識の中から消えていた。
どのぐらい、そこにいるのか、自覚できない。
空を飛んでいるようでもあり、深い海の底を泳いでいるようでもあった。
宙を浮いているのか、液体に沈んでいるのか。
波なのか風なのかよくわからない、圧倒的な大きなものに身体が包まれている。
腕も足も動かせる。でも自分の意思で漕いでいるというより、運ばれているようだ。
目の前を、すごいスピードで景色が過ぎている。
すべて俺が過去に見たビジョンだ。
オッサンや由里子、杉作くんなど、これまで出会ってきた人たち。
収監されたN刑務所、ネクサスドア時代、ボロアパート暮らし、学生時代、そして子どもの頃……記憶に残っている無数の景色が帯になって、通り過ぎていく。
スマホのアルバムをスライドタッチして、写真を弾いて流したような眺めだ。
風はない。でも音がする。
ずっと音が聞こえる。それはリズムだった。
サンバに近い、躍動的な拍だ。俺の鼓動と同期して、気持ちが高ぶっていく。
俺は、地球の“遊び”の音だと思った。
厳密な時間の律のなかに、隠しコマンドのように仕掛けられた、タイムスリップの空間にだけ流れているBGMだ。
タイムスリップの経験者──タイムトラベラーと言われた人物たちも、この音を聞いたのだろうか。
1960年にセスナ機で飛行中、1932年に飛んでいたレアード複葉機と衝突しかけたジョン・ウォール。
自分は2036年から来たと公表し、コンピューターの2000年問題を解決したあと姿を消したというジョン・タイター。
未来から持って来たカメラで風景を撮り、光の反射など、細密な一瞬をキャンバスに描きとめたという17世紀の画家ヨハネス・フェルメール。
真偽はともかく、タイムトラベルの経験者は、公式な記録にいくつか残っている。
タイムスリップの先輩たち、いや後輩になるのか? まあ、どっちでもいい。
彼らに尋ねてみたい。この音を、この感覚を言葉にしたら、どう表現する?
どんなことも、体験してみないとわからないというけれど、タイムスリップほど体験した者じゃないと絶対わからないものは、ないと思った。
時間の意識から解き放され、遠くから近くから聞こえてくる未知のリズムと、心地のいい浮遊感に、力を抜いて身を委ねていた。
ふと、視界の上の方に光が射した。
その光が粒子から次第に束になり、半球状の立体に姿を変えた。
立体の断面に、俺は頭から吸いこまれた。
西島和彦
気づくと、太陽が真上にあった。
俺は、どこかの建物の屋上にうずくまっていた。
「うまく……いったのか?」
タイムスリップしたヤツは、やっぱりうずくまって転送されるんだなと、変なことを発見した。『ターミネーター』は正解だったわけだ。
周りを見渡した。俺がいるのは4~5階建てぐらいのビルだった。
少し離れたところに何棟か5階以上の高いビルが建っている。高層ビルは、ほとんど見かけない。
大きく息を吸うと、空気は澄んでいるようだ。
「うまくいってるなら、ここは秋葉原のはずだけど」
俺のすぐ横に、スマホが落ちていた。タイムスリップの起動装置は、自動的に転送される仕組みになっているらしい。そうだよな。じゃないと元の世界に戻れない。
時計を見ると、『1978年』と表示されていた。
うまくいったようだ。
ポケットを探ると、財布があった。金も入っている。全部、旧札と旧コインに切り替わっていた。オッサンがもしものときのために持っていけと言っていたパスポートも、旧式のタイプに変わっている。タイムスリップ上の自動的な変更ルールらしい。スマホは起動装置だから特別として、未来の物は一切、過去には持ちこめないのだろう。
金があれば少しは安心できる。まずは西島たちを探そう。
と思った瞬間、怒鳴り声がした。
「おい、そこのお前!!」
ギョッとして、声の方向を見た。
屋上の欄干のそばに、若い男が立っていた。工事現場用のでかい白ヘルメットを被っている。
ランドセルみたいな箱形ケースを背負っていた。
ケースの上部に巨大なプロペラが伸びていて、男の頭上を覆っている。
両手に分離型のコントローラーを持っていた。男の足下には、ケーブルやコードが無造作にからまった、手づくりらしきコンピューターが置いてあった。
パッと見ただけでわかる。
個人乗りのヘリコプターで、今から飛び立とうとしているバカだ。
「ちょっと手伝うてや! こいつ動かすのに、ひとりじゃ無理やねん!」
なめらかな関西弁には、有無を言わさない圧力があった。
「な、何やってんだ、あんた」
「見てわからへんか。空を飛ぶ以外に何しようって言うねん。こんな装備整えて、そこまで散歩ですわっていうほうが、頭おかしいやろ」
初対面で何だ? その口の利き方は。
男がなめらかに続ける。
「あー先に言うとくけどな。頭おかしいんですか? っちゅうツッコミは飽きてるから、言わんでええぞ。そんなんウチの古畑や成田にさんざん聞かされとる」
えっ? こいつはもしかして。
「あんた西島和彦、さん……?」
「おお、知り合いやったら話は早い。俺はお前を全然知らんけど」
と言って西島は、ヘルメットを取った。長い髪を、手でわしゃわしゃと広げた。
頬がこけ、鼻梁の通った、浅黒い精悍な顔立ちだ。並びのいい真っ白の歯が、笑顔を際立たせた。太い眉は、きりっと10時10分の角度に決まっている。この時代にはたぶん珍しい、きれいな二重の両目が印象的だった。
男の俺が言うのも何だが、かなりの二枚目だ。
雑誌モデルをやっていた、若い頃の阿部寛に似ている。
「アーキテクトの社長の西島や。どっかで会ってたらすまんけど完璧に忘れてるわ。お前は誰や?」
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