「パンク」としてのきゃりーぱみゅぱみゅ
きゃりーぱみゅぱみゅも、世界から見た10年代のJ-POPシーンを代表する存在だ。彼女のキャリアにおける大きな特徴は、実は海外"進出"をしたわけではないということ。
かつてのピンク・レディー、松田聖子、宇多田ヒカルのように、日本で頂点に立ってからアメリカでデビューする道程を辿ったわけではない。国内外で同時に火がついた。
2011年にリリースされたデビュー・ミニアルバム『もしもし原宿』のリード曲「PONPONPON」は世界23ヵ国のiTunes Storeで先行配信され、フィンランドとベルギーのエレクトロニックソングチャートで1位を獲得。翌2012年にリリースされた1stアルバム『ぱみゅぱみゅレボリューション』は同じくアメリカ、フランス、ベルギーの各エレクトロニックチャートで1位となった。
翌2013年、きゃりーは8ヵ国18公演におよぶ初めてのワールドツアーを開催する。海外の熱狂的な反響を受けて、彼女自身はインタビューにて「私は『2年目で世界ツアーなんて早いんじゃないか』って思ってたんですけど、向こうの人たちは『2年間も待ってたんだよ。来てくれてありがとう』みたいな感じで、すごくうれしかったです」と感想を語っている(音楽ナタリー「きゃりーぱみゅぱみゅ『にんじゃりばんばん』特集 2013年3月21日更新」)。
(PHOTO:gettyimages)きゃりーぱみゅぱみゅ
なぜ彼女は各国で同時多発的なブレイクを果たすことができたのか。所属レーベル「unBORDE」のレーベルヘッドをつとめるワーナーミュージック・ジャパンの鈴木竜馬に話を聞くことができた。
彼はまず「時代との相性が本当によかったと思います」とデビュー時を振り返る。
きゃりーはSNSと動画サイトが"前提"となった時代に登場したアーティストだった。YouTubeで公開された「PONPONPON」のミュージックビデオはたちまち話題を呼び、公開後1ヵ月で200万回以上の再生回数を記録。コメント欄には各国語で書かれた感想が集まった。
当時すでに世界中に1000万人以上のフォロワーを持っていたポップスター、ケイティ・ペリーがツイッターで紹介したことも大きかった。
美術デザインを担当した増田セバスチャン、ミュージックビデオの監督を手がけた田向潤、スタイリングの飯島久美子は、その後もきゃりーのクリエイティブに欠かせない存在となり、きゃりーは日本発の「カワイイ」カルチャーを代表するポップアイコンとして各国にファンを増やしていく。
「『カワイイ』と言われるカルチャーって、70年代ロンドンのパンク・ムーブメントと似たところがあると思うんですよ」と、鈴木は言う。共通点はファッションと音楽が結びついたムーブメントである、ということだ。
「『カワイイ』カルチャーというのも、つまりは、カラフルでキラキラしている日本の女の子たちのポップ・カルチャーが好きな海外の人たちが飛びついてるっていうことだと思うんです。日本人が思っている以上に、向こうの人はファッションと音楽が結びついたカルチャーとしてそれを捉えていますね」
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