こういう時は文献を読み解くことに終始しよう
ユニクロ「ワイヤレスブラ」のCMに出演した佐々木希について報じる「スポーツ報知」の記事が、彼女の写真に「ブラジャー姿が不思議といやらしくない佐々木希」とのキャプションを入れていた。名を名乗らぬ誰かが書いた個人的嗜好丸出しのキャプションが放置される感じを探ろうと佐々木希の資料を集め始めていたのだが、週末、編集担当から「清水富美加、何だかすごいことになってきましたね」との言付けがあり、今週は急遽、彼女について書くことになった。「何だかすごい」というのは、何だか怖そうな事務所と何だか怪しそうな宗教に挟まれている様子を見届けた上で、コチラはどちらにも肩入れしないがオマエはどう捉えるのか、と放り投げるのに最適な言葉の選択である。
さて、こういう時(=怖そうな人たちと怪しそうな人たちが拮抗している時)は、すでに提示されている文献を読み解くことに終始しよう。横入りするように「そんな気がした」「双方とも一理ある」などの見解をいたずらに撒いて立ち去るのは、昨年来しきりに「井上公造化する日本」(=大きな話題が生じるたびに「実は知っていた」「そういう気配を察知していた」「まだ隠されていることがある」などと言い始める慣習と社会)を憂いてきた身には許されまい。
「高菜高まる 高菜高まる 高菜高まる 高菜高まる」
まずは、清水富美加のフォトエッセイ『ふみかふみ』を読む。『TV Bros.』や『QUICK JAPAN』の連載でも同様だが、瑣末な点にこだわる視点が実に独特である。「私が優しくて無意味な瞬間」とのエッセイには、階段を下りている時、自分は内角を攻めて最も歩数が少なくなるようにしていたのだが、下からサラリーマンが上ってきて外角を歩かせてしまった。上りの方が大変なのだから私が外角をまわるべきだった、そんなことを考えられる「私って優しいなって思った」とある。ぐるぐる回っている頭ん中をそのまま伝えてくる文章が読ませる。
『徹子の部屋』の出演時に歌ったオリジナル曲「高菜おにぎりの歌」の歌詞も記載されているが、「高菜高まる 高菜高まる 高菜高まる 高菜高まる」と4度連呼してから、「週7 月31で食べたい」と続いていく辺りは、相当にトリッキーな言語センスである。「採算取れてるのかな、自分」といったタイトルのエッセイを引っ張って、「清水は、こんな悩みを抱えてきた……」といかにもワイドショーっぽい報道を作り上げることもできるが、むしろ、自分のもやもやした感情を何となくの語感で「ぺふぺふ病」と名付ける稀有なセンスのほうが明らかに際立っている。