この写真の提供元の新橋商事には撮影年などは伝わっていないそうだが、映画『戦争と平和』の看板が見えることから昭和41年頃なのがわかる。この看板のあたりに後日SLが置かれる。奥の低い建物群と路地がマーケットで、この敷地の上に数年後、〈ニュー新橋ビル〉が建つことになる。(新橋商事提供)
ひと仕事片づけ、疲れを感じる午後3時。すりおろし玉ねぎ入りの野菜ジュースをおばちゃんから受け取る。一口含めば「にがっ……えぐい!」、思わず漏れた一言を聞き漏らさぬジュース屋のおばちゃん、笑いながらすすめてくる。「ミント噛んでみなさい」と。噛めばすこぶるスッキリし、その後一気に体から緊張が消え、すこぶるぼーっとできる。
もう一軒のジュース屋も同様に、ぼーっとしているサラリーマンのおじさんたちが幾人も。健康ジュースをすすりながら健康に相反するタバコをくゆらし、ひたすらぼーっ。居眠りしそうな人もいる。が、ややあって再び目に力を宿すと、次々にジュース屋を離れ路地のような廊下を伝い、ビルから出撃していく。
こんな光景が広がるジュース屋のほか、立ち食い蕎麦屋、オムライスやナポリタンを食わせる洋食屋、金券ショップ、地下に下りれば焼き鳥屋、全席喫煙の喫茶店、2階に上がればマッサージ店、ゲーセン、さらに上には雀荘などがごった煮のごとく詰まったビルが、新橋駅日比谷口真ん前にある。
そう、我らが〈ニュー新橋ビル〉である。
このビルが、我らおじさんたちを癒してくれるのはなぜだろう?東京には、こんな洗練とは程遠く、雑多でありながらもどこか懐かしい場所、暗がり、がまだある。光の下では我々はまぶしくて生きられない。暗闇に逃げ込んで一息つきたい。〈ニュー新橋ビル〉は、それをかなえてくれる「おじさんのゆりかご」なのである。この狙っても二度と作れないビル内外のノスタルジック空間はいつ、どうやって生まれたのか見ていこう。
金券ショップ、マッサージ店、ジュース屋、そのテナントの並びには何のコンセプトも介在しない。ひとつ流行ると、同じ業種の店がぽこぽこできることがあるようだが、そのリアリズムこそがこのビル最大の魅力。狙って作れますか? この景観を。
ヤミ市から生まれた巨大なマーケットがビルの前身なのだ。汐留貨物駅があり、物資輸送の拠点だった新橋駅周辺は、戦時中空襲での火災被害を減らすため、建物をあらかじめ壊しておき火除(よ)け地を作る強制疎開が行われ、駅前には広大な空き地が生まれていた。戦争が終わるとすぐここに、青空の下、風呂敷やカバンを地べたに広げて物を売る人々が集まってきた。やがてその規模はどんどん大きくなり、地割りし、ヨシズ張りにした店が増えていった……。ヤミ市の誕生である。昭和21年1月頃には1500店前後にまで増え、「闇」とはいえないほど堂々たる規模の、東京を代表するヤミ市に育った。
ここを取り仕切っていたのが、テキヤの親分、「カッパの松」と呼ばれた関東松田組・松田義一組長だ。大陸浪人であった松田は、帰国後、対抗組織をつぶしながらたちまち力をつけ、露天商たちをまとめあげた。そして2600坪の駅西側の空間に、露店から総2階の建物に整備した〈新生マーケット〉の建設を目論(もくろ)んだ。
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