朝鮮半島から渡ってきた金明軍
少年時代の大伴家持の恋人と目される金明軍。
実は名前については異説があって、余明軍だったという説があります。
金も余も字面が似ているので書写しているうちに混在してしまったのですね。金は新羅王姓、余は百済王姓なので、どちらの説を取っても古代朝鮮王朝の血を引く血筋ということになります。今となってはどちらが正しいか藪の中なので、とりあえず『本朝男色考』の記述にしたがい、ここでは金明軍で話を進めます。
で、この明軍、もともと大伴家持の父旅人の資人、いわばボディーガードでした。その流れで、息子の家持のお守り役になったのですね。生年は不詳ですが、おそらく年齢は旅人と家持の間くらい。家持からすれば頼れるお兄ちゃんといった感じでしょうか。
父の代からの従者と関係を持つというのは、平安末期の皆のアイドル藤原頼長様もやっていたことなので、ひょっとしたら、奈良・平安朝通じて貴族の貴公子には恒例のことだったのかもしれません。
彼のルーツについて推測すると、家持の生まれる半世紀ほど前に起きた、新羅による朝鮮半島統一戦争時に亡命してきた一族だった可能性があります。日本もこの戦争には無関係ではなく、同盟国だった百済援助のため、軍を派遣しました。しかし、665年白村江の戦いで新羅・唐連合軍に大敗北。この時、日本軍は、退却の際、大量の亡命者を日本に連れ帰りました。明軍の父祖はその一人だったのかもしれません。
半世紀という時間を考えると、明軍は世代的には移民3世か4世になります。父祖の国に遠い郷愁を覚えつつも、育った国の方に強いアイデンティティを感じ始める世代でしょうか。一方、家と外で別の言葉を使うため、土着の人とはまた違った眼差しで移民先の言葉を見つめることになります。こうした視座が明軍の文学的センスを鍛えたようで、彼は優れた歌を八首万葉集に残しました。
その一つが、
「あしびきの山に生ひたる菅のねもころ見まくほしき君かも」
現代語訳すると、「あしびきの山に生えている菅の根のようにねもころ(懇ろ)に見ていたいあなたよ」といったところでしょうか。何かの事情で会えなくなった思い人に対し「ずっと真心をこめて見ていたいな」と訴えているわけですね。
そして、万葉集に載っているこの歌の題詞というのが……
金明軍大伴宿弥家持に与ふる歌
何と明軍が家持に送ったラブレターだったのです。
この問いに家持がどう答えたか記録は残っていません。しかし、万葉集の撰者は家持なので、この歌が万葉集に残っていること自体、その答えなのでしょう。
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