男色を禁じる「阿豆那比の罪」?
前回、明治・大正まで話を進め、男色が終わりゆく姿をお話ししました。今回は逆に歴史をさかのぼって、日本における、男色の初めを探っていこうと思います。
種本にするのは、男色研究家にとって、バイブルともいうべき岩田準一さんの『本朝男色考』。
この本によれば、『日本書記』の巻九、神功皇后紀の摂政元年(201年頃?)に「阿豆那比(あずない)の罪」とあるのが、本朝男色の始まりなのだそうです。どんな話かというと……
ある時、神功皇后が南の方、紀伊の国は小竹宮を訪れると、土地では「常夜行之」昼でも夜のように暗い日が続いていました。不審に思って、里の老人に理由を尋ねると「二社の神官を合葬したせいではないか」という答えがかえってきました。これだけでは、事情が分からないので、さらに別の者に話を聞くと、次のようなことがあったと教えてくれました。
かつて小竹宮には、小竹祝(シヌノノハフリ)と天野祝(アマノノハフリ)という二人の神官がおりました。彼らは互いに深く相思う「うるわしき友(善友)」で、仲睦まじく暮らしていたのですが、ある日、小竹祝がにわかに病を得てみまかってしまいます。
「うるわしき友(善友)」に先立たれた天野祝は血の涙を流して嘆き悲しみ、
「生きている間、うるわしき友だったのに、死んだからといって同じ穴に葬られないということがあろうか」
と叫ぶと屍の側に添い伏し、そのまま息を引き取ってしまいました。
里の者は、二人の生きている間の厚情を想い、天野祝の願い通り同穴に葬ってあげたのですが、これが「常夜行之」の原因だったようです。
皇后は墓を暴いて両人が本当に合葬されていることを確認すると、棺を改め、別々の場所に埋葬し直しました。その結果、太陽は輝きを取り戻し、再び日夜の区別がつくようになったのでした。
岩田さんはこの説話について、旧約聖書のように男色、ソドミーの罪を示唆したものと解釈していましたが、さてどうでしょう? それなら、まだ小竹祝と天野祝が生きていて「善友」だった時に、常夜行之にならないとつじつまがあいません。また、原始日本における罪業の概念をあらわしていると考えられる「大祓詞」にも、国つ罪(地上の人々が犯す罪)として、近親相姦と、母娘双方に手を出すこといわゆる親子丼と、獣姦のタブーは謡われていても、男色について何も触れられていません。
「阿豆那比の罪」は単に儀礼に則らない埋葬の仕方を咎めるものだったような気がします。
我が国において、男色と罪を結びつける考えがあったというのは、どうも私にはピンと来ないのです。
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