「音楽も文学も、表現しようとしているものに共通性はあると思う」
『マチネの終わりに』が豊潤な作品であることは、刊行後にじわじわと読者を増やし、今なお勢いが衰えない現象を見るだけでも分かる。きちんと読まれ、内容の充実が知れ渡って、いっそう多くの人が手に取るというサイクルができあがっており、一過性のベストセラーとは明らかに様相が違う。
作品はさらなる広がりを見せる。同名のCDが2016年10月に発売となったのだ。演奏はクラシックギター界の巨匠、福田進一さん。主人公・蒔野はクラシックギタリストであり、作中には頻繁に演奏シーンやさまざまな曲目が出てくる。それらのなかから厳選した曲が収録してある。小説の作品世界により広がりをもたらし、また、独立した名盤としても福田進一作品の数あるラインアップに名を連ねる一枚となった。
もともと福田進一さんと平野啓一郎さんに親交があったことから、実現に至ったものとのことだが、それぞれの分野のトップランナーががっぷり四つに組んでコラボレーション作品が生み出されるのは、ありそうでなかなかない。
確固たる表現世界を築いているふたりによる今回のコラボレーションは、なぜかくも成功裏に成立したのだろう。
音楽家は、音というかたちのない素材によって人の感情を揺り動かすことに全霊を傾けているし、小説家は、言葉というこれも目に見えないものを用いて、ひとつの世界を丸ごと立ち上がらせようとする。異なる要素と組んで何かをつくるというのは、かなりの難題だとも想像するのだけれど……。
「本とCD、それぞれがちゃんと独立したものになっている」
福田進一(以下、福田) たしかに、なんでも異ジャンルを組み合わせてやれば、いいものができるということはないですよね。今回の試みがおもしろいのは、平野さんの頭のなかで出来上がった作品がすでにあって、それを読んだうえでCDをつくっていったところ。だから本とCD、それぞれがちゃんと独立したものになっている。
平野啓一郎(以下、平野) 僕のほうとしては、ほんとうに楽しい思いをさせていただきました。そもそもギタリストを主人公にしようとしたきっかけが、福田さんのCDを聴いたことですから。こうして作品を受けてCDをつくっていただけたのは、もう純粋にうれしいかぎりです。執筆中も、つねに福田さんのCDを聴いていました。
それでも、刊行したばかりのときは、「小説書いたんでCD出してください」なんて、福田さんのような巨匠に対して、僕からはとても言い出せなかった(笑)。幸い、作品がたくさんの読者を得て広がっていってくれたから、こういう話が立ち上がってくれました。
実現には、読者の方々の後押しもありましたね。
「せっかく頭のなかにイメージができているから、映画化はしてほしくない」
という声はちらほら聞くんですが、音楽については、
「出てくる曲をまとめて聴きたい」
という要望をよく耳にしました。実際、インターネットのなかで音源を探して、読みながら聴いている方もいたようです。だったら、福田さんの演奏でちゃんと聴けるほうがきっといいですよね。
これを機に福田さんのコンサートに行ったという話もあって、それはうれしいことですね。
福田 東京のコンサートに、熊本からいらしてくださったりとかね。それにしても、小説の主人公がほんとうにクラシックギタリストでいいの? と最初は思いましたけど。
平野 クラシックギターという楽器は以前から好きで、何らかのかたちで書きたいとは思っていたんです。
福田 でも、どうも地味な世界だし、ギターはクラシック音楽の本筋にはないじゃないですか。まあその分、バイオリニストなんかよりフリーで、縛られるものが少ないから、小説の素材として扱いやすい面はあるのかな。誰もが知る名曲ばかりじゃなく、多くの人にとって未知な曲も登場させられるし。
クラシックギターの世界は独自で、ギターの世界で生きるのかクラシックの世界に足を踏み入れるか、誰もが迷いながら選択しないといけないんですよ。クラシックをやると決めても、ビートルズなんかを編曲したものもあって、そちらにも目配りしないといけなかったり。
平野 クラシックギターがユニークな位置にあるのは、書いていてすごく感じました。その分、小説にするにはおもしろい世界ではありましたね。いきなりオーケストラが50人も登場してくると収拾がつかないですし(笑)。
CDには、小説『マチネの終わりに』に出てくる数十のクラシックギター曲のなかから、選び抜いた作品が収録されている。すベて福田進一さんによる音源で、過去の演奏もあれば、新たにレコーディングしたものもある。ギター曲としては広く知られたものが多いなか、小説内で重要な役割を果たす楽曲「幸福の硬貨」はまったく架空の曲であるため、作曲家の林そよかさんが新たに書き下ろした新曲となっている。
福田 作中に出てくる曲目について、当然ながら僕は預かり知らぬ立場でした。「アランフェス協奏曲」がこの場面で出てくるのかといったことは、読んで初めて知りました。それがまた新鮮でいいんですよ。いろんな場面での曲の役割は、平野さんが考え、想像し、完結させている。それを受け止めて、この曲はあのときの演奏がある、こっちはレコーディングしようなどと構想を決めていきました。曲目、曲順などは平野さんと幾度も話し合って決めていきましたね。
小説に出てくる曲については、ストーリーと深く結びつくよう緻密に考えられている。たとえば、バッハの曲が登場するシーンでは、ここはバッハであるべき深い理由がある。
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