老教授から発せられた衝撃的なひと言。 ふたたび地獄の日々が始まるのか?

見知らぬ老教授によって施設から連れ出された二人の兄妹、青磁と萌黄。虐待の日々から抜け出せるかのように思えたが、彼らに待っていたのは老教授からの思いもよらぬ命令だった……。さかき漣の単著デビュー作『エクサスケールの少女』(徳間書店)の発売を記念して、その一部をcakesに特別掲載!

第一章 本当の名も知らない頃
—4

京都の高級住宅地の一角にひときわ立派な居を構える老人は、その名を一斤いっこんといった。古いが恐ろしく広い重厚な館に、家政婦が数人つめていた。なかでも年若い十代の家政婦がふたりの世話係につくと告げられる。あかねと言う少女で、先ほど二人を案内してくれた人物だ。
「うちもあの先生に助けてもらってん。あんなええひと、他におらへんよ。せやから、ぜーんぶ安心しよし。な」
一斤の前を下がった後、邸内を案内しながら、茜はしきりに兄妹へ話しかけた。栗色の髪を肩のあたりで切りそろえた少女。茜は、本来であれば高校に通うべき年齢だ。しかし中学を不登校となったまま高校受験もせず、ここで働いているのだという。随分とお喋りが好きな、若者らしい活発な性格のようだった。
青磁せいじ萌黄もえぎは、屋敷の中でも南東に位置する、明るい和室を与えられた。八畳間が二つ並び、どちらも南に日当たりのよい広縁を有していた。広縁に向けては雪見障子が配されていた。小障子を上げれば、庭園に茂る新緑が目に眩しく飛び込んでくる。青磁は驚いた。子供の目から見ても美しい、素晴らしく整えられた部屋だったのだから。
洋風の広間の円卓で夕食を囲んだのち、青磁と萌黄はやはり茜の世話で風呂を貰い、自室まで送られた。茹だった子供らを包むのは、さっぱりとした生地で仕立てられた和服の寝巻だった。二間の真ん中を襖で仕切って使うよう指示され、布団の敷き方を茜から習う。萌黄ははしゃぎ、茜にじゃれついては抱き上げられ、また仕事に戻されるのを繰り返していた。
「ほな、おやすみなさい。夜中に喉が渇いたら、そこに水差しとコップがあるしな。それと…… これは先生には内緒やで。お菓子、今日だけ特別にな」
茜が差し出した菓子鉢を覗きこみ、萌黄が歓声を上げた。すっきりとした鍋島焼なべしまやきの菓子鉢の中には、初夏を告げる魚をかたどった菓子である若鮎わかあゆと、青いもみじ葉を模した干菓子が彩りよく並んでいたのだ。
茜の厚意にどう反応してよいか分からず、青磁は途方に暮れかけた。なぜ雇い主に秘密にしてまで優しくしてくれようとするのか。これまでの生活とは全く異なる事態の連続に、頭が追い付いていかない。
「お兄ちゃん、食べていい?」
「ええやんなあ、青磁さん。明日からは、歯磨き後のおやつは禁止やけどな」
言いながら茜は、ほうじ茶を二人分淹れている。戸惑う青磁の前で萌黄は無邪気に菓子を口に含み、
「おいしい! ありがとう、茜ちゃん」
頻りにはしゃいでいる。茜はそんな萌黄の後ろに座り、菓子を平らげる間、萌黄の腰まで届く長い髪に櫛を通した。
茜が退室してしまえば、辺りは一気にしんと静まった。青磁と萌黄は生まれて初めて、個室での就寝の時間を迎えたのだ。柔らかく、日で干した匂いのする布団だった。
「お兄ちゃん、すごい、ふっかふかだね。お母さんの匂いがする」
布団の中で頻りに体を動かしながら、萌黄が話しかけてくる。
「うん……萌黄、もう襖を閉めるよ。そうして使うように言われたからね」
襖を閉めると、さらにこの恵まれた境遇への驚きが青磁の胸にひしひしと迫ってきた。昨日までの惨めな生活と較べれば何たる差だろう? 興奮さめやらず、なかなか寝付けぬ青磁は、半刻もすると隣の部屋の萌黄の様子を見に行った。が、既に萌黄は、ぐっすりと眠っていた。これまで見たことのないほど安堵しているような寝顔だった。
緊張の時間を過ごしたものの疲れには勝てず、青磁もいつしか深く寝入っていたらしい。すぐ耳元で聞こえた鳥の鳴き声に驚き、青磁ははっと目を覚ました。雪見障子に視線をやれば、既に庭へは薄い朝日が差し込んでいる。そして瞼を擦りながら周囲を見渡して、青磁はさらに驚かされた。なんと青磁の傍に、大判の図鑑が置かれていたのだ。表紙には『世界の石図鑑』と銘打たれている、ぶ厚い図鑑である。
なぜ枕元にこんなものが置いてあるのか、青磁は大いに戸惑った。しかし好奇心には勝てず、おそるおそる表紙を開いてみる。どのページを開いても、色とりどりの石が並びこちらを見上げてきて、たちまち青磁を魅了してしまう。
ふと思い立ち、青磁は枕の下から、あの御守りの石を取り出した。長らく自分の拠り所だった宝の“本当の名前”を知りたかったのだ。
ページを繰り続け、やがて少年は手を止めた。食い入るように、紙面の写真と手のひらの石を見比べる。どうやら青磁の宝石は、黒雲母くろうんもというものに似ているようだった。幾重にも重なり、黒く光って、青磁の心を鼓舞していた。

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エクサスケールの少女

さかき漣

30年後にやってくる人工知能が人間を超える“シンギュラリティ"(技術的特異点)。その前段階としてこの10年以内に起こるのが「エクサスケールの衝撃」だ。スパコンの計算処理能力によって、医療・物理・宇宙工学などに革命を起こし、人間生活を大...もっと読む

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rensakaki2016 #エクサスケールの少女 の序章と第一章が試し読みできます。 #エクサ少女 #さかき漣 第一章 本当の名も知らない頃 ——4—— 『』 https://t.co/Lvq8SKqWfs 約1年前 replyretweetfavorite

rensakaki2016 #エクサ少女 の冒頭が、いちぶ読めます。 『』 |さかき漣 | # 1年以上前 replyretweetfavorite

rensakaki2016 cakes短期連載「 」 京都は下鴨の大邸宅で、良質の和文化と美しい植物群に囲まれた暮らし。当然ながら書庫もあります。#エクサスケールの少女 #エクサ少女 https://t.co/Lvq8SKqWfs 約3年前 replyretweetfavorite