かつてアツい批評の時代があった
—— 1975年から現代日本の批評の歴史をたどる重厚な企画「現代日本の批評」がついに完結しました。2001年〜2016年を扱った『ゲンロン4』は、増刷を重ねて3刷までいったそうですね。
東浩紀(以下、東) ありがたいことです、ほんとに。前号に比べて、倍くらい売れてるんじゃないかな。
—— 倍はすごいですね。今回は、近年の批評を扱っているから、興味を持つ読者が多かったんでしょうか。
東 それはあるでしょうね。ただ、1年前に『現代日本の批評Ⅰ』をスタートさせた時から、「現在の話までたどりついた時に話題になるだろうな」って想像はしてたわけです、ある程度。
ものごとってなんでもそうですけど、一発でバンって売れるとは限らないじゃないですか。だから、当初から1年の計画を立てて、目次を作っていたんです。それができるのはうちの強みですね。今の出版社は、場当たり的に本を作ってるところが多いでしょう。
—— 雑誌もどんどん特集主義になっていて、その時々の旬なネタで単発の特集を組むようになってますね。
東 そんな短いスパンの構想力で、骨のあるものが作れるはずがないですよ。そして今回、シリーズ完結に合わせて浅田彰さんのインタビューも掲載しました。その内容も好評なので、かなり売り上げにつながったんじゃないですか。
—— 浅田さんのインタビュー、めちゃくちゃおもしろかったです。浅田さんの少年時代から掘り起こして、その思想的遍歴をたどった読み応えのある記事でした。
東 それも結局、聞けばおもしろい話が聞けるはずなのに、誰もちゃんと聞いてこなかっただけのことなんですよね。浅田さんといえば過去のひとと決めてかかっていた。ここ数年、浅田さんにがっつりロングインタビューした媒体がありましたか? この世界にはまだまだおもしろいネタが転がっているし、ものすごく豊穣なものがあるのに、みんな放置してる。今、書店の人文系の棚を見たら、「若者は投票に行け!」みたいな本ばっかりでしょう。中身も、いろんな有名人のコラムを集めたお手軽なもの。
—— もともと最先端の思想やハードな批評を紹介する場だった『ユリイカ』や『現代思想』も、テーマありきの雑誌になっていますね。
東 まったくです。『ユリイカ』は昔とはべつの雑誌ですね。公開予定の映画や美術展とのタイアップばかり。もはやキャンペーン雑誌ですよ。
—— (笑)。そう考えると、なんのキャンペーンでもないのに、1年もかけて過去の批評を振り返っている『ゲンロン』って、孤高ですね。
東 孤高です。問題はそれで売れるかってことだけど、確かにめちゃくちゃ売れるわけではない。でも堅い本が売れないのは今も昔も同じなんです。問題なのは、そういう骨のある本を作ろうとする送り手がいなくなっちゃったこと。それが読者の質を低め、ますます堅い本が売れないという悪循環を作ってる。とにかく、送り手に誇りがない。
今の本の作り方って、編集者がツイッターを見て「◯◯さんと仲が良さそうだから、対談本を作りませんか?」くらいのお手軽な依頼で始まる。それで2時間くらい対談して新書を作っちゃうんだから。
—— 同じ対談本でも、70年代や80年代の本とは内容の厚みが違いますか。
東 違いますね。あの頃の出版と今の出版は、もはや同じものではないですよ。たとえば、70年代にスタートした「エナジー対話」という叢書が昔あって、これはガソリン会社が出資して作ったシリーズなんだけど。
—— (調べる)おお、初号は「詩の誕生」で、出版社が、エッソ・スタンダード石油広報部(笑)。
東 それ! それが高階秀爾と小松左京、鈴木忠志と中村雄二郎など、そうそうたる人文系の書き手に対談をさせているんです。それも、2泊3日、総時間60時間とか対談して、その内容を1冊に圧縮してるんですよ。
—— 60時間って、テープ起こしをするだけで、半月はかかりそうですね……。テープ起こしなんてしないんですかね。
東 とにかくかけているコストが今の本とはぜんぜん違う。もちろん手間ひまをかけてもダメなものもあるんだけど、大前提として、手間ひまをかけないといいものは作れない。
—— 人文系でそれだけのコストをかけていた時代があった。
東 そうです。アツいでしょう。かつてそういうアツい時代があって、批評というものは成立していた。そして批評とか言葉っていうのは、本来、そういう過去の歴史があって成り立つものなわけです。
—— 本や言説は、過去に発された言葉の組み合わせで編まれているんですもんね。
東 ところが今は「批評」といえば、「この瞬間にウケればいい」っていう考えで、いかにバズるか、RTされるかっていうことばかり目的に発信するものになっちゃっている。結局、2016年の論壇で一番影響力があった言葉は何かというと、「保育園落ちた日本死ね!!!」* ですよ。けれど、そういうブログの文章がいくら積み重なっても、言論は育たない。
* 「保育園落ちた日本死ね!!!」 「はてな匿名ダイアリー」に投稿された文章。保育園に子供を預けることができなかったとされる著者が、その憤懣を「保育園落ちた日本死ね!!!」という言葉とともに綴っている。この一文は国会でも取り上げられ、2016年新語・流行語大賞のトップ10にランクインした。
“言論”は役に立たない知的な遊びか
—— いきなり核心になるんですが、そこでおっしゃられている“言論”というのは、社会の役に立たない理論、知的な遊びのようなものと言ってもいいですか?
東 ちがいます。僕は遊びだとは思っていないです。というか、遊びなんだけど、役に立つようなものだと思っている。そもそも役に立つか立たないかっていうのは、観点による。
たとえば、サッカーをやることが役に立つかどうかっていう判断は、けっこうむずかしいはずです。確かに、プロになったりオリンピックに出たりしない限り、サッカーをやっても「役に立ってない」とは言える。しかし、趣味でやるだけでも健康にはいいかもしれない。実際、だからこそ学校でもサッカーをやるわけでしょう。それなのに、今の日本の言論界というのは、「サッカーなんて遊びをやってるんじゃない」「遊んでる暇があったら、とにかくダッシュして脚力を鍛えよ」みたいなことばかり言っている状況なわけですね。
でも、そんなつまんないこと、誰もしたくないわけですよ。だから世の中全体が知的に不健康になっていっているんだな。
—— その場合の“脚力”というのは、「社会の役に立つ言葉」ということですか?
東 そうですね。目の前の人を救う言葉、みたいなね。でも、直接目の前のひとを救わなくても、長期的には救うような言葉はあるってことです。
けれども、大事なのは、そもそも「遊び」とか「役に立つ」とかいう分割こそ大して役に立たないってことです。だから、哲学や批評は役に立たない「からこそ」必要だとか言うつもりもない。それが遊びかどうか、役に立つかどうかは、結局よくわからないから。大事なのは、人にはそういうよくわからない、だけど豊穣なものが必要だということです。
—— 抽象的な理論が具体的にどう役に立つのかはわからないけど、それが人間には必要だということですか。
東 まあ、そうかな。それに、「役に立つこと」っていうのは、そもそもほとんど議論の必要がなく、あるていど答えが出ちゃうものなんです。問題が起きたら、情報を集めてきちんと対策を打っていけばいいんだから。
—— 費用対効果を計算するだけで、機械的に答えを導き出せると。
東 そうですね。答えが決まっている。一方、“ものを考える”ということは、いくら考えても答えが出ないようなことに関わる。
—— 考えても答えが出ない、ですか?
東 それこそ、「日本人はどう生きるべきか?」とか、議論しても絶対に正解が出ないでしょう。けれど、そんなことを考えても役に立たないと言って、だれも考えなくなった世界は最悪ですよ。実際、そうやってさまざまな議論を切り捨てていった先に、「保育園落ちた日本死ね!!!」という叫びだけが力をもつような砂漠のような世界が訪れてしまった。今の日本の言論状況は、そういう点で決定的に貧しいものになっている。論壇誌の見出しなんかもひどいですよ。
—— 東さんは、「3.11」以後、福島県を観光地にしようという「福島第一原発観光地化計画」を発表しましたね。それこそまさに、答えの出ない問いを考えようとしていたのかと思います。
東 あの観光地化計画については、もうあまり話したくないんだけど、一種の思考実験ではあった。原発事故ひとつとっても、いろんな見方ができるんだよっていうことを提示するための。しかし、世の中はそういう思考実験を受け入れなかった。「原発事故を考える? それで被災者が救えるの?」っていう感じだった。
—— 確かに、「不謹慎だ」とか「当事者のことを考えてない」というリアクションも多かったですね。
東 むろん、被災者を救うことや当事者を元気づけることは大切でしょう。けれども、それに加えて、そういう思考実験があっても無駄ではない。これはべつに矛盾する話じゃないんだけど、「おまえは福島の話に入ってくるな」と言わんばかりの反応があったのは残念でした。福島復興は言説の世界でも利権になりましたね。
次回「ブログみたいな読み物に飽き足らない1%の読者へ」1/25更新予定
構成:西中賢治