【知恵】7月29日 金曜日
知恵の夏はもうとっくに始まっていた。
先週の土曜日は大手外資コンサルとBBQ、今週末は葉山でデートだ。
いつも通り会社を定時に終え、18時半から始まる料理教室に向かう途中で知恵のiPhoneが鳴った。
「今夜、商社時代の同期と飲むんだけど知恵もジョインしない?」
滝沢からだった。
「今から料理教室なんだけど、その後だったら行けますよ」
「オッケー、待ってる。ヒルズクラブのラウンジに来て」
知恵は最近、和食作りにハマっている。海外生活の経験がある知恵は、日本文化の良さをよく知っているのだ。今日の料理教室のメニューは旬な夏野菜のサラダと竜田揚げ、それからだし巻き卵にデザートは豆乳プリンだ。
知恵は女友達と料理を楽しんだ後、六本木ヒルズクラブのラウンジ「フィフティワン」へ向かった。
【くるみ】同日
「お先に失礼します」
くるみが勤めるアパレルブランドが都内旗艦店をリニューアルオープンすることになり、その一大イベントに向けての準備で忙しかったくるみだが、先日無事に立ち上がりを終えて一段落したので、今日は19時半頃には帰る目処がついた。
オフィスを出て、iPhoneに来ていたメッセージの返信をしていると、滝沢から連絡があった。
「今友達と飲んでるんだけど来なよ」
こんなに早く仕事が終わるのも久しぶりだし、少し顔出そうかな。
くるみは帰路の途中で方向転換し、六本木へ向かった。
*
「フィフティワン」は、六本木ヒルズの51階のエレベーターを下りてすぐの場所にある会員制のラウンジだ。入会金120万円に、毎年18万円という高額な年会費を払っている人とそのゲストだけが入店できる。東京を一望しながらお酒が飲める、エクスクルーシブなラウンジは滝沢のお気に入りだった。席の間隔もそこそこあるため、周囲に自分たちの会話が聞こえることもない。
「いらっしゃいませ」
「あ、滝沢で予約している…」
「滝沢様、お待ちしておりました。ご案内します」
フィフィティワンに入るのは初めてのくるみがまず驚いたのは、スタッフが予約台帳やiPadなどを見ることなく、席へと案内し始めたことである。その日の予約名と席をすべて暗記していないとできないことである。
「あ、すみません、その前にお手洗いに行きたいんですけど」
「かしこまりました」
ちゃんとした雰囲気のお店だから、メイクをきれいに直しておこう。くるみはとっさの判断で化粧室に案内してもらい、目尻のアイラインをばっちり引き直し、マスカラも上下塗り直した。そして童顔を引き立てる小さな唇に真っ赤な口紅を塗り、透明なグロスを重ねて色気をまとう。
「うん、かんぺき!」
鏡で全身をサッとチェックしてからトイレのドアを開けた。受付に戻って席に案内してもらおうと思っていたが、トイレの前で店員が姿勢を正しくして待っていたので驚いた。
「あ、すみません」
くるみは急いで店員のもとにかけ寄り、再び席へと案内してもらった。
「こんばんは」
「おぉ、くるみ、紹介するよ。オレの商社時代の同期で小野っていうんだ。今は関連会社に出向中でヨーロッパに駐在してるんだけど、今帰国中なんだ」
特別カッコ良くもないがダサくもない、滝沢ほど出しゃばることもなさそうな中肉中背の男が滝沢の向かいに座っていた。座高からして彼と同じく175センチくらいの身長だろう。
「初めまして、小野です」
「あ、小野さん。どうも」
小野に向かって小さく会釈する。
「こちらはくるみ。オレの彼女」
彼女!?と思ったが、訂正するのも面倒で、まぁなんでもいっかと思い直し、「くるみと申します」とあいさつをした。
「何飲む? 同じのでいい?」
テーブルを見ると、2人は白ワインのボトルを開けていた。
「んー、うん」
くるみは本当はメニューを見て選びたかったが、場の空気を読んで同じものにした。
「すみません、グラスもう1つください!」
3人でワインを飲みながら、小野やくるみの仕事の話、滝沢の自慢話などをして他愛もない時間を過ごした。
*
「こんばんは」
cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。