十五
五月、島津久光、伊達宗城、松平春嶽、山内容堂の四侯が上洛を果たし、慶喜を交えて雄藩会議が開かれた。
ところが兵庫開港問題と長州処分問題のどちらを優先するかで議論が紛糾し、怒った容堂が帰国することで、会議は空中分解してしまう。だが慶喜は、この経緯を踏まえて朝廷に兵庫開港の勅許を奏請し、それを得ることに成功する。
慶喜の作戦勝ちだった。しかし完全な勝利に反動は付き物である。
慶喜の悪辣な手口に憤激した久光は、これまでの公武合体路線を捨て、この時を境に、西郷と大久保が唱える武力討幕路線に傾斜していく。
ところが九月七日、思わぬところから横やりが入る。
土佐藩の後藤象二郎が西郷と大久保に対し、「幕府に大政奉還の建白書を提出するから、武力討幕を待ってほしい」と言ってきたのだ。
だが二人は、慶喜がこれを拒否すると見ており、その時こそ武力討幕が図れると思っていた。
十月三日、後藤が前藩主・山内容堂の名で大政奉還建白書を提出する一方、大久保は岩倉を動かし、討幕の密勅を薩長両藩に下させた。
ところが十四日、慶喜は大政奉還の上表を朝廷に提出し、これが受理されることで、討幕の密勅は取り消されることになった。
薩摩藩にとって予想もしなかった事態である。
小松、西郷、大久保の三人は、それでも武力討幕の方針を捨てず、藩主の率兵上京を促すべく、国元に戻っていった。
十一月十五日、土佐藩の坂本龍馬と中岡慎太郎が、何者かによって殺害された。
世情は騒然とし、目的もはっきりしないまま、暗殺や謀殺が平然と行われるようになった。
そんな最中の十六日、利良は島原の鶴屋で、伊東と会う約束をした。
鶴屋に先着した利良が、二階の張り出しに腰掛けて通りを眺めていると、伊東が店の前まで駕篭を乗り付けてきた。慌てて伊東が来た方角に目を凝らしたが、どうやら尾行者はいないようだ。
───それにしても不用心に過ぎる。
坂本と中岡が誰とも分からぬ刺客に襲われたばかりだというのに、伊東はそんなことを意に介さず、一人で駕篭に乗ってきた。
───いったい、どういう神経をしているのか。
「お待たせいたした」
「いや、お気になさらず」
「近頃は何かと多用でな」
そう言いながら、伊東は煙管を取り出し、いつものように煙草を詰め始めている。
「駕篭とは驚きました。少しは御身を気遣ったらいかがか」
利良が皮肉のように言う。
「そうだな。近頃は何かと物騒だ」
伊東は他人事のように言うと、うまそうに煙管をふかした。
「さて、此度はいろいろ聞き込んできたぞ」
「と、仰せになられると」
「まあ、お待ちなさい」
無愛想な女中が酒肴を置いて去るのを待って、伊東が口を開いた。
「これから、たいへんなことになりますぞ」
「たいへんなこととは───」
「慶喜公の大政奉還を不服とした会津・桑名・紀州・彦根の四藩が、再度、幕府に大政が委任されるよう、朝廷に圧力を掛け始めた」
「まさか」
「江戸でも幕臣たちが騒ぎ出し、再委任を求める建白書を朝廷に提出するとか」
手酌で酒を飲みつつ、伊東の弁舌は滑らかである。
「貴藩にとっての難敵は会津藩だ。貴藩兵や長州藩兵が大手を振って入京すれば、必ず一悶着起きる」
伊東によると、慶喜と会津藩の関係は冷え切っており、もはや慶喜にも、会津藩兵を抑える力はないという。
「分かりました。上役に伝えておきます」
「上役っていうのは、西郷さんと大久保さんのどちらだね」
「私は、双方から命を受けて動くよう申し付けられています」
「なるほどね」
伊東が煙草盆を引き寄せると、小気味よい手つきで煙管の灰を落とした。
「二人の意見が対立したら、あんたはどうする」
「えっ」
これまで全く考えもしなかったことを問われ、利良はどう答えてよいか分からなかった。
「いや、今の問いは忘れてくれ。ただの仮定の話だ。西郷さんと大久保さんは一枚岩だ。案ずることはない」
伊東が高らかに笑う。
───確かに今はそうでも、先々はどうなるかわからぬ。
幕府や会桑という共通の敵がある限り、二人は一致団結している。しかしそれがなくなれば、すべての意見が一致するとは限らない。
───大丈夫だ。われらには小松様がいる。
この頃の薩摩藩の表看板は、家老の地位にある小松帯刀である。温和な性格の小松がいる限り、二人が決裂することはないと利良は思っていた。
この後、伊東は幕府や会津藩の詳細な動向を語った。
利良が十両の包みを三つ置くと、伊東はそれを懐に入れて立ち上がった。
「さてと、今日のところはこんなもんだ。次に会う時は、新選組の話でもするかね」
「何か動きでもあるのですか」
「それがね、ちょうど明後日の夜、七条にある近藤さんの妾宅で飲むことになっているんで、いろいろ聞き出すつもりだ」
「それは大胆な───」
「あの手の連中は、学識に弱い。手玉に取るのは難しくない」
「そうですか。くれぐれもお気をつけ下さい」
「ご忠告、すまぬ。それにしてもあんたは、人の話を聞き出すのがうまいね」
「それぐらいしか取り柄はありません」
伊東は笑みを浮かべると、颯爽と階段を下りていった。
この二日後、伊東は殺される。
十一月十八日の夜、伊東は近藤の妾宅で飲み、徒歩で七条油小路の辻辺りに差し掛かったところで、新選組隊士に斬られたのだ。
伊東は己の才に溺れ、相手を見くびっていた。
───伊東は新選組に殺されたのではない。己の油断に殺されたのだ。
利良は、それを戒めにしようと思った。
同じ日、京都に戻っていた小松、西郷、大久保の三人が藩主の率兵上京を決断し、その知らせを利良に持たせ、蒸気船で薩摩に向かわせた。
薩摩に戻った利良が、小松たちの書状を藩庁に提出すると、藩庁から利良に呼び出しがあった。
勇んで駆け付けると、藩庁の役人から、藩主茂久が率兵上京することになり、その護衛部隊として兵具隊三小隊を編制するので、その一番小隊長に任命すると申し渡された。
唖然とする利良に、役人は「一代限りの御小姓を命じる」とも言った。
利良は突然、西郷らと同じ城下士となったのだ。
最後に役人は、「すべて西郷殿のお取り計らいによる」と付け加えた。
震える手で命令書を拝領した利良は、京にいる西郷に向かって、それを掲げて拝礼した。
───西郷先生、ありがとうございます。
利良は、西郷のためなら水火も辞さぬつもりになっていた。
比志島に戻った利良は、屈強の者三十二名を選抜すると、これを比志島抜刀隊と名付けて一番小隊に組み込んだ。一番小隊は、他地区の外城士も含めて百名ほどになる。
十一月二十一日、利良は三千の藩兵と共に軍艦四隻に乗り、鹿児島を出発した。
───おいはやっど!
桟橋で手を振る家族に別れを告げながら、利良は錦江湾を後にした。徐々に遠ざかっていく桜島の煙が、やけに名残惜しく感じられた。
動乱の時代に向かって、利良の新たな戦いが始まった。