走狗

孝明帝崩御

西郷とともに英国の外交官 アーネスト・サトウと出会い、治安を維持するための機関「ポリス」という仕事を知った川路。政治の変革期には暗殺という謀略が必要になると諭すサトウだが、どうしても納得のいかない西郷であった。


十三


 慶応二年も押し詰った十二月二十五日、孝明帝が崩御した。それまで帝は健康に全く問題がなかったので、幕府・薩長両陣営に衝撃が走った。

 最も痛手をこうむったのは、将軍慶喜である。

 慶喜が朝廷と密な関係を築けたのも、孝明帝が慶喜を気に入っていたからで、肝心の天皇が亡くなれば、佐幕派公家たちの出方は分からなくなる。

 さらに慶喜にとって痛かったのは、ひとつきの服喪期間が設けられたことだった。この間、慶喜は兵庫開港問題も長州処分問題も棚上げにせざるを得なくなる。

 服喪期間が明けた慶応三年(一八六七)二月、慶喜は巻き返しに転じ、せんしたばかりの明治帝を取り込み、開国にまいしんし始める。幕府主導で開国することで、諸外国との交易の利を独占しようというのだ。


 四月初め、利良は島原の鶴屋で伊東甲子太郎と密会した。

 伊東は最初の頃のような警戒心もなく、堂々と駕篭を乗り付けてきた。

 得意の黒羽二重の紋付着物に七子織の紋付羽織姿は、初めに会った時と同じだが、金回りがいいのか、さらに質のいい生地を使った高級品に替わっている。

「これは川路殿、お久しぶり」

「こちらこそ、ご無沙汰しておりました」

 二人は正月明け以来、会っていなかった。

「新選組を離脱して間もないので、いろいろ多忙でね」

「そういえば新たな隊を結成したとか」

「ああ。りょうと名付けた」

 三月に新選組を脱退した伊東は、十四人の仲間と共に御陵衛士という新たな組織を結成した。

 伊東によると、思想の違いから分離したとはいえ、建前は薩長両藩の内情を探るとしているので、新選組の面々とは、今でも友好関係にあるという。

 ───そんなはずはあるまい。

 新選組が、それほど甘い組織だとは思えないが、利良は伊東が語るに任せた。

「御陵衛士には、こんどう殿らとは江戸以来の盟友である斎藤一殿もいる」

 近藤殿とは、新選組局長の近藤いさみのことである。

 利良は、かつて伊東が新選組の斎藤一につけられていたことを、本人には告げずにいた。それを伝えることで伊東が警戒し、利良と会わなくなることを恐れたのだ。

「今日は、挨拶がてら壬生の新選組屯所に寄ってきたのだが、近藤殿やひじかた殿も御陵衛士の結成を喜んでくれた」

 土方殿とは、新選組副長の土方としぞうのことである。

 ───何とも不用心なことだ。

 伊東が何をしようと構わないが、薩摩藩にとって伊東は大切な間者なのだ。少しは注意を払ってもらわねばならない。

「伊東さんは豪胆ですな」

「ははは、それほどでもないよ」

 伊東は早速、懐から煙草入れと火打袋を取り出し、煙草を詰め始めている。

「いずれにしても、少しお気をつけになられた方がよろしいかと」

「ご心配には及ばぬ。あの連中は、それがしに一目置いている。それがし抜きでは、他藩のお歴々と会うこともできなかったのだからな」

 伊東が高笑いする。

 その学識と弁舌で、伊東は新選組になくてはならない存在になっていた。しかも、これからも友好関係を続けたいと、近藤が言ってきているという話である。

「その点は分かりましたが、くれぐれもご注意めされよ。それで何か動きがありましたか」

 伊東はにやりとすると、いかにも小器用に火打石を使い、くちに種火をおこすと、煙管に火を移した。

「これは噂だが」

 伊東は、いつものように思わせぶりである。

「帝の死因はとうそう(天然痘)とされているが、実は───」

 大きく紫煙を吐き出すと、伊東は小声で言った。

「殺されたのだ」

「何と───」

「毒を盛られたらしい」

「誰がどうやって」

 さすがの利良も驚きを隠せない。

「まあ、落ち着きなさい」

 その時、階段を上がる音がして、愛想の悪い女中がしゅこうを運んできた。

 伊東は、「こいつは河ふぐの刺身かい」などと問うている。

 やがて盆を置いた女中は、「失礼します」とも言わずに部屋を出ると、階段を下りていった。

 煙管を置き、酒を一口飲んだ伊東が言った。

「まず、誰がという問いだが、女と答えておこう」

「女───、と仰せか」

 伊東は、河豚の刺身に舌鼓を打ちつつ語り始めた。

 孝明帝は十二月十二日頃に発熱し、十六日に医師が痘瘡と診断した。二十一日になると、快方に向かっているという情報が入り、周囲は安心した。侍従たちは、全快を祝う祝宴を二十七日に行うとまで発表した。ところが二十五日、急逝したという。

「天皇の側室のほりかわもとが、息のかかった女官を使って殺したという噂だ」

「女官を使ったのですか」

「そうらしいな。どうやら帝が痘瘡になったのをよいことに、それに便乗して殺せば疑われないと思ったらしい」

 伊東によると、帝は床の上に上半身だけ起き上がれるほど回復した時、書状を書くと言い出した。

 書状を書く際、帝は筆をめる癖があり、それを知る女官が、帝の筆の先にヒ素を塗ったというのだ。

「でも、なぜ───」

「堀河紀子の兄を知らぬのか」

「知りませんな」

 利良は正直に答えた。

いわくらともという下級公家だ。かつて帝にきんじゅとして仕えていたのだが、長州藩が都で幅を利かせていた頃、佐幕派と誤解され、蟄居謹慎させられてね」

「その男が、どうして帝を───」

「自らの地位回復のためだ」

「そんなことで帝を殺すのですか」

「それは、本人に問うてみるしかあるまい」

「本人と言っても、どうやって───」

 河豚の刺身の大半を平らげた伊東が、残った数枚が載る皿を利良に差し出した。利良は受け取ったが、むろん食べる気にならない。

「その岩倉公ご本人が、薩摩藩の有力者に会いたいと仰せになられておる」

「待たれよ。それがしの一存では、何とも答えられませぬ」

 そんな恐ろしい男に、西郷や大久保を会わせるわけにはいかない。

「心配は要らぬ。河豚には毒があるが、うまく毒を取り除けば、これほどうまいものはない。何を食べるにも料理人の腕次第ということだ」

 利良の手元から皿を引き寄せた伊東は、残る河豚をすべて平らげた。


 この話を早速、大久保にしたところ、大久保は「考えておく」と言って返事を保留した。しかし五日ほど経った後、利良を呼び、伊東に渡りを付けるよう申し渡した。

 実はここ一年、大久保の朝廷工作は不調に陥っていた。文久年間に薩摩藩寄りだった中川宮朝彦親王は、今では慶喜寄りとなっており、致し方なく手を握った近衛忠房は役に立たない。それゆえ大久保は、新たな相棒を探していた。

 下級公家とはいえ岩倉は、この三月に罪を免ぜられ、朝廷に出入りできる立場にある。しかも頭の切れは、公家の中でも抜群という評判である。

 薩摩藩にとって岩倉は、またとない相手だった。

走狗

伊東 潤
中央公論新社
2016-12-19

コルク

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伊東潤

伊東潤デビュー10周年の集大成 警察の父・川路利良大警視(現:警視総監)の生涯を描いた長編時代小説 明治維新――。それは、謀略渦巻く、弱肉強食の時代。 純粋な志を持つ男たちが、権力を握るや、醜い修羅へと変わってしまう。 薩摩藩の下...もっと読む

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