十二
慶応二年(一八六六)六月七日、第二次長州征討が開始された。
幕府は三十一もの藩を動員し、芸州口、石州口、大島口、小倉口の四方向から長州藩領に攻め入った。
当初、圧倒的な優位が予想された幕府軍(諸藩連合)だったが、旧態依然とした装備と軍組織の下、戦国時代さながらの戦い方をしたため、装備も軍制も最新式の長州藩兵の敵ではなかった。
幕府にとって悪いことは続く。
苦戦が続く最中の七月二十日、大坂城にいる将軍家茂が急逝した。生来、蒲柳の質だった家茂だが、二十一歳の若さで死ぬなど、誰も予想していなかった。それでも戦いを継続しようとした慶喜だが、緒戦の敗戦に嫌気が差した諸藩は、積極的攻勢を取らなくなる。
「このままでは、幕府軍の敗戦が決定してしまう」と思った慶喜は、八月二十一日、家茂の死を口実に休戦を宣言した。
そうなれば、誰かが次期将軍の座に就かねばならない。
むろん慶喜以外に適任者はいない。
ところが慶喜は、将軍就任を固辞するという予想外の挙に出る。慶喜としては、将軍職に飛び付くのではなく、老中、朝廷、雄藩などから懇請される形で就きたかったのだ。
九月、京都にいる大久保は、国元にいる西郷あての書簡に、「幸いにして慶喜が将軍職就任を固辞しているので、この機会に将軍職を廃し、雄藩の諸侯会議に政治の中心を移そう」と書き、実際に内大臣の近衛忠房を動かし、天皇が慶喜に将軍宣下せず、雄藩会議を召集するよう働き掛けた。
この動きを察知した慶喜は、慌てて朝廷工作を仕掛け、四カ月間の将軍空位期間を経た同年十二月、将軍の座に就いた。
将軍となった慶喜は絶大な権力を手にすることになり、幕軍の改革に取り組み始める。
それを支えたのが、フランス公使のロッシュである。
西郷と大久保は、次の一手を打つ必要があった。
慶喜が将軍宣下を受けた翌日の十二月六日、利良は西郷の従者として兵庫港に来ていた。
兵庫港とは、かつて平清盛が繁栄の礎を築いた大輪田泊のことで、後の神戸港の西側部分にあたる。
兵庫の早期開港を求める英仏蘭米四カ国と、それを阻止しようとする朝廷との板挟みとなった幕府は、長らく兵庫開港問題が悩みの種となっていた。
というのも孝明帝は大の異人嫌いで、京都に近い兵庫の開港だけは断固として認めなかったからだ。しかし慶喜が将軍に就任したことで、慶喜贔屓の孝明帝が開港の勅許を与えるかもしれず、この問題を幕府揺さぶりの手札としている薩摩藩としては、予断を許さない状況となってきた。
イギリス側としても、フランス主導で開港されることにでもなれば、貿易特権をフランスに独占される。それを阻止するには、雄藩主導で開港という道筋を付けねばならない。
この時、西郷の面談の相手は、アーネスト・サトウという英国の外交官兼通詞である。
サトウは、薩摩藩と英国の橋渡し役として日本に滞在しており、すでに流暢な日本語を操るようになっていた。
温暖な瀬戸内海に面しているためか、真冬でも兵庫は、さほどの寒さを感じない。利良は前方をのっしのっしと歩く西郷から二間あまり後方に付き従い、周囲に注意を払っていた。
むろん従者と言っても、剣の腕を買われ、西郷の護衛役に指名されたのだ。
会見の場所とされた寺に西郷が現れると、うれしそうにサトウが近づいてきた。二人は旧知の間柄らしい。
若い僧が寺の中に案内しようとすると、西郷が言った。
「ここがよかな。サトウさん」
「はい。そうしましょう」
西郷が「よいしょ」と言いながら本堂の階段に腰を下ろすと、サトウもそれに倣う。
そこからは兵庫の海が望めた。天気も晴れており、黴臭い寺の一室などで話をするより、よほど気分がいい。
利良は二人の周囲を警戒するように、境内をゆっくりと歩いていた。
「サトウさん、寒くはなかですか」
「私の故郷は、とても寒いところです。このくらいは何でもありません」
「そいはよかな」
その時、西郷から声がかかった。
「おう、そうじゃ。正どん、そけ突っ立っちょったち無粋じゃっで、こけ来んな」
「いや、しかし───」
「おはんなただん(ただの)護衛じゃなか。そいはついでで、主たる役目は政治ん動きを知ってもろこっじゃ」
「あいがとごぜもす。じゃれば遠慮なく───」
与力にすぎない利良を、いつも西郷は人として扱ってくれる。
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