十
慶応二年(一八六六)一月二十一日、薩摩・長州両藩の間で、六カ条の盟約が結ばれた。
薩長同盟である。
この密約は、幕府と長州の間で開戦となった折、薩摩藩は国元から大坂と京都に兵を送り、幕軍を牽制し、長州藩の冤罪を朝廷に訴え、停戦に持ち込むところに主たる目的があった。
薩摩藩が禁門の変で敵対した長州藩を、これほどまでに援護するのは、従来の幕藩体制では外圧に対抗できないと感じていたからである。すなわち薩摩藩は、長州藩と共に雄藩連合政権を樹立し、挙国一致体制を築こうというのだ。
一方の慶喜は、朝廷から「長州藩主父子の隠居と永蟄居」「十万石の削封」「三家老家(益田・福原・国司)の家名断絶」といった処分案の承認をもらい、長州藩を追い詰めようとしていた。
二月には老中の小笠原長行を広島まで派遣し、この決定を長州藩の三支藩主や重臣に伝達しようとしたが、長州藩は時間稼ぎに出て、命令の請書の提出をずるずると遅らせた。
四月、大久保は老中の板倉勝静に会い、征長反対の六カ条を並べ立て、藩主名の「出兵拒絶書」を幕府に提出し、その態度を鮮明にした。この結果、日和見していた諸藩は一斉に同調する。
しかし慶喜も負けていない。
六月、慶喜は参内し、孝明帝に「長州藩が朝廷の命に服さない(処分案を受諾しない)ので、問罪の師(戦争)を行いたい」と奏聞し、即座に受諾させた。慶喜は孝明帝の信頼を得ており、ここ一番でその手札を使い、ことごとく外交的勝利を勝ち取ってきたが、今回も同様だった。
これにより第二次長州征討は確実となった。
征長を押しとどめられなかった西郷と大久保は、次善の策である「戦争勝利」に方針を転換する。
久方ぶりにお藤の許に顔を出すと、お藤は喜びをあらわにして、利良を迎えてくれた。
「おこしやす。ここのところ、お顔が見えへんかったさかい、寂しおした」
京都藩邸詰の与力仲間から、京女の言葉を真に受けてはだめだと言われていたので、利良はこうした言葉を話半分で聞くようになっていた。
「本気にしてくれはらへんのどすな」
お藤は店の戸口まで行くと、暖簾を中に入れて、戸口に心張り棒を掛けた。
「今日のお客はんは川路はんだけどす」
「えっ、本当かい」
さすがの利良もうれしくなる。
「今日は、あても川路はんと飲みとおす」
そう言うと、お藤は冷酒と料理を載せた盆を運んできた。
「これは嵯峨野で穫れた京フキどす。いつも来てくれはるお百姓はんが、朝に穫れたお野菜を届けてくれはりました。今日はきっと川路はんが来はると思て、すぐに煮付けたんどすえ」
「こいつは、うまそうだな」
「お野菜の好きな川路はんのために作りました」
お藤が一つつまむと、「あーんしとくれやす」と言って、川路の口に運んだ。
淡緑色の茎から染み出すフキ独特の強い香りが、口中に広がる。
「柔らかくてうまいな」
「そうどっしゃろ」
二人は、フキのほかにも茄子や南瓜などの夏野菜に舌鼓を打ちつつ大いに飲んだ。
「さて、そろそろ帰るか」
「えっ、もう帰らはるんどすか」
「ああ、藩邸に戻らんとな」
「そないに真面目な方は、この京にはいはらしまへん」
「そう言われてもな───」
元来が生真面目な利良としては、藩の規則は守りたい。しかし利良が西郷や大久保の手足となっていることは、藩邸の誰もが知っている。それゆえ一夜くらい戻らなくても咎める者はいない。
「今夜は飲みまひょ」
お藤が流し目を送ってくる。
「そ、そうだな。そうするか」
さらに二人は飲み、大いに盛り上がった。お藤は何かを忘れたいかのように盃を空け続けたので、呂律が回らなくなった。
それでも飲み続けたので、遂にお藤は泥酔し、卓子に突っ伏してしまった。
「お藤さん」
「足腰が立たしまへん。奥の部屋に連れてってくれはらしまへんか」
「分かった」
お藤の肩に腕を回し、利良は裏にあるお藤の居室に連れていった。
───まいったな。
そう思いながらも、利良とてまんざらでもない。
有明行灯に火を入れていると、お藤が言った。
「あては、川路はんのことが好きや」
利良の脳裏に雷光が走る。
「お藤さん。本気か」
「京女は嘘をつきまへん」
「抱いて───、いいのか」
「よろしおす」
それからは無我夢中だった。
利良は、お藤の体を懸命に求め、お藤もなりふりかまわず利良に応えた。
われに返ると、真夜中になっていた。
事が終わってしばらくすると、お藤が問うてきた。
「川路はんは、大切なお仕事をしてはりますなぁ」
「大した仕事ではない」
聞き耳を立てていたわけではないだろうが、木戸や伊藤と飲んだ時、お藤は利良の仕事を知ったに違いない。
「木戸はんたちと、この国を変えたいんどすな」
「まあ、そんなところだ」
実際は使い走りの小僧も変わらないのだが、女にそう言われると、少しは見栄を張りたくなる。
「この国は変わりますやろか」
「お藤さんの故郷はどこだ」
利良は話題を転じようとした。
「丹後の宮津というとこどす。同じ京都でも、あての故郷は貧しくて食べていけへんさかい、ここに出てきて十年かけて、ようやっと店を出すことができました」
そこまで聞けば、お藤が以前に何を仕事としていたか明らかである。
「親兄弟はどうした」
「どうもこうもあらしまへん。親ははように死に、一人だけいる弟は、大坂の料理屋に奉公に出とります」
「弟さんも料理人の修業を積んでいるのか」
「はい。この世にたった一人の肉親やさかい、心配どすけど、会えるのは年に一度くらいどす」
「そうか。それは寂しいな」
「わてらは働き詰めでも食べていくのがやっと。それに比べてお武家はんらは、何の仕事もせずに豊かに暮らしたはります。そんな世の中を、川路はんらは変えてくれはりますのやろ」
結局、話題は今の政局に戻っていく。
「実は、わしは武士とは言えない身分の出だ」
利良は、自らの身分や故郷の生活を正直に語った。
「ほんまのことを語ってくれはって、あてはうれしい」
お藤が利良の体に身を寄せてきた。
「川路はんや桂はんらが、この世の中を変えてくれはるんどすな」
「ああ、必ず変える。今の幕府は己の権益を守ることだけに汲々としている。これでは外夷に付け込まれる。そうさせないために、朝廷を中心とした挙国一致の体制を築かねばならぬ」
話題を変えるのをあきらめた利良は、己の理想を語った。むろん、ほかの者たちが言ったことの受け売りである。
その後、少し眠った利良は、一番鶏が鳴く頃、藩邸に戻っていった。
それから三日にあげず、お藤の店に通った利良は、お藤と関係を重ねて有頂天になった。
ある日、藩邸内の自身番が回ってきた。この仕事は一刻に一度だけ藩邸内を見回り、火事や異変を察知する仕事なので、大半の時間が暇になる。
その日は、黒田了介という六つ年下の男と相番になった。
黒田は無類の女好きで、猥談ばかりしたがる。主に女郎の話なのだが、自分の話が尽きた黒田が、利良にも女の話をしろと迫ったので、ついお藤のことを漏らしてしまった。
それから数日後、藩邸の広縁で書見していると、黒田が二人の男を伴って現れた。
「正どん、何しちょる」
「あっ、村田さんに篠原さん。『孫子』を読んじょいもす」
黒田と一緒に来たのは、村田新八と篠原冬一郎である。二人は与力の利良にも分け隔てなく接してくれるので、利良も気を許している。
身長が六尺余もある村田は、利良よりも幾分か背が高いが、猫背なので、一緒に歩くとほとんど変わらない。一方の篠原は中肉中背だが、肩幅が広く肉厚で甲鉄のような胸板をしている。
西郷や大久保の片腕として、村田は外交を、篠原は軍事を担当している。
「正どん、了介から聞いたぞ」
広縁に座ると、村田は利良から『孫子』を取り上げ、ぺらぺらとめくった。
利良は村田と篠原よりも二つ年長だが、二人とも城下士なので敬語を使う。
「なかなか、よか女ちゅうじゃなかか」
「えっ、何のこっで」
二人の後方で黒田がもじもじしている。
「なんごっも隠すのはいかん」
篠原が笑みを浮かべた。無口で実直が取り柄の篠原が笑うことは、極めて珍しい。
ようやく何のことか気づいた利良は、黒田に言った。
「了介、おはんは、なんと口が軽か」
「勘弁してくいやい。女んこっじゃっで、よか思うて───」
二人が大笑いする。
「そいでな正どん、おいたちはおはんの女が見たかと。今宵にでも、そん店に連れっくいやい」
村田が有無を言わさぬ口調で言う。
「そいはよかですが───」
「よし、こいで決まりじゃ」
利良の背を痛いくらい叩くと、村田は行ってしまった。
「楽しみにしちょっぞ」
口辺に意味ありげな笑みを浮かべると、篠原も後に続いた。
「了介、覚えちょけよ」
「正どん、勘弁な」
黒田が小走りになって、二人の後を追う。
一つため息をついた利良は、「致し方なか」と呟くと、書見に戻った。