九
閏五月二十二日、将軍家茂が京都に着いた。早速、家茂を禁裏に呼んだ孝明帝は、「将軍は大坂にとどまり、諸藩の意見を聞いた上で、長州処分を決定するように」と下命する。これに唯々諾々と従った家茂は、二十五日には大坂に下った。
それと入れ違うようにして大久保が、続いて西郷が入京してくる。
利良が伊東甲子太郎から聞いた話をすると、二人は再征妨害工作を始めるという。
諸藩にとって、その財政的負担から、再征などしたくないというのが本音である。それでも根回しをしておかないと、慶喜あたりが強気なことを言った際、誰も反論せず右へ倣えとなることも考えられる。
関ヶ原合戦時の小山会議の故事を引くまでもなく、武士というのは風見鶏のようなものなので、「諸藩は再征反対で一致している」と釘を刺しておくだけで、随分と違う。
西郷と大久保が話し合う場に何度か同席させてもらった利良は、こうした政治的駆け引きを少しずつ学んでいった。
大坂城で行われた長州処分をめぐる会議は、「長州藩の家老か支藩主を大坂まで呼び出し、尋問の上、処分を決定する」という、朝廷が主張するのと同じ穏当な線で落ち着いた。
ところが長州藩は、理由を設けてこれを拒否してきた。のこのこ大坂に出ていけば、減封か移封か、何らかの制裁措置を通告されるに決まっているからだ。
もはや幕府の体面を保つには、実力で長州藩をねじ伏せる以外になくなっていた。
慶喜と松平容保は大いにやる気だったが、江戸や大坂の老中はこれに反対し、双方の溝は深まっていった。
こうした仲違いも、自然に起こったものではなく、西郷と大久保が周到に調えたものだった。
すなわち双方に近い公家や武士らに会いに行き、雑談のように「一橋公は武功を挙げ、将軍の座を狙っている」と言ったり、「老中どもは、一橋公を隠居させようとしている」と囁いたりして、それが双方に聞こえるようにしたのだ。
この効果が十分と見た二人は、西郷は京に残り、大久保は軍備を整えるべく、国元に帰っていった。
これで再征がなくなれば、まさに西郷と大久保の思うつぼである。しかし万が一、再征が実現する可能性がある。その場合も、二人は幕府の企図は必ず失敗すると予想し、国力を充実させねばならないと考えていた。
利良は、藩邸の書庫から埃だらけの『孫子』を引っ張り出してきた。
───なるほど、これは面白い。
利良は戦が始まってからの戦術よりも、その前段にあたる準備の方に興味を持った。
───「兵とは詭道なり」、か。
その中に書かれている「怒にして之を撓し、卑にして之を驕らし、逸にして之を労し、親にして之を離す」という言葉に、利良は注目した。
───つまり「相手が怒っている時は、挑発して敵を撹乱し、相手が謙虚な時は、驕らせるようにし、相手が安逸を貪っていれば、疲れさせるようにし、団結していれば、その仲を離間する」ということか。
西郷や大久保のやっていることの大半が『孫子』に則っていると、利良は気づいた。
九月、いつまでも条約の勅許が得られない幕府に業を煮やした英仏蘭三国は、八隻の連合艦隊を編制し、兵庫沖に姿を現した。これに世情は騒然とし、朝廷も震え上がった。
この騒ぎを利用しない手はないとばかりに、慶喜は十月、長らく懸案だった条約勅許を取り付けることに成功した。
慶喜は、英米仏蘭の艦隊の脅威を大げさに喧伝した恫喝外交で、事実上の開国に持ち込んだのだ。これにより薩摩藩の行ってきた一会桑と幕閣の離間工作も水泡に帰し、両者は歩み寄りを見せ始める。
薩摩藩は斉彬の遺訓を奉じているので、開国に決して反対ではない。だが、幕府主導の開国だと貿易の利益を独占される恐れがあるため、それだけは回避したい。
慶応元年も押し詰まった頃、第二次征長が決定的となった。
二人は長州藩のために砲銃や弾薬、さらに艦船の購入を代行することで、幕府軍に対抗させようとした。これが薩長同盟に発展する。
京都での生活が始まったものの、西郷や大久保は政治工作に忙しく、利良の出番は、なかなかやってこなかった。
あれから月に一、二度ほど、お藤の店に通っていたが、慶応元年の秋頃から、次第にその回数が増えていった。
翌二年の門松も取れる頃、人寂しくなった利良は、お藤の店を訪れてみた。
ちょうど店の前まで来た時である。中肉中背の武士が、店を出てくるところに出くわした。
武士は左右を見回すと、そそくさと闇の中に消えていった。それを見送るお藤の様子が、やけにかいがいしい。
───まさか、お藤さんの男か。
考えてみれば、女盛りのお藤に男がいても不思議ではない。
だが今の男は、どこかで見たような気もする。
───待てよ。
記憶を探ったが思い出せない。何かの会合で会っただけかもしれないが、他人の空似ということも考えられる。
少し落胆したものの、ここまで来たので店に入ることにした。
店の前まで来ると、もう日は沈んでいるのに暖簾が掛かっていない。訝しみつつも、利良は「ごめん」と言って店に入った。
「まあ、おこしやす」
お藤の声音はいつもと変わらないが、どこか意表を突かれたような感じもする。暖簾が出ていないのに店に入ることが、京ではいかに無粋か、利良は知る由もない。
「今の男は常連かい」
そう尋ねながら、利良は座敷になっている卓子に座った。ほかに客はいない。
「へえ、たまに来はります」
お藤が困ったように言う。
「どこの藩士だい」
「さあ」
そう言うと、お藤は、燗酒と湯豆腐を運んできた。
「寒いので、湯豆腐を作ったんどすえ」
「こいつはうまい」
利良が舌鼓を打つ。
湯豆腐は十分に昆布のだしが効いているので、薄口醤油をかける必要もない。
「今宵は、これから忙しなります」
「客が大勢、来るのか」
「へえ。それほどでもおへんけど」
都人の遠回しな言い方には、とんと疎い利良である。「これから忙しくなる」というのが、「今日は帰ってほしい」という意味だと気づくのは、ずっと後になってからである。
しばらく酒を飲んでいると、先ほどの男が、別の男と連れ立って姿を現した。お藤は、無理に笑みを浮かべて「おこしやす」と言っているが、その顔には、困っている様子が浮かんでいた。
利良が仕方なく頭を下げると、二人も会釈を返してきた。
「そろそろ、お暇する」
微妙な空気を感じ取った利良が、腰を上げようとした時である。
「もしや貴殿は、薩摩藩の方では───」
先ほどの男が問うてきた。
「ないごてそいを───、いや、どうしてそれを」
咄嗟のことで薩摩言葉が出てしまう。
「藩邸内でお見かけしました」
「藩邸内───、というと」
先ほどの男が、もう一人に視線で合図すると、その男がうなずいた。
「それがしは長州藩の伊藤春輔(後の博文)、こちらは───」
「木戸貫治、前の名は桂小五郎と申す」
「えっ、あの───」
利良は唖然とした。
その時、記憶がよみがえってきた。見知らぬ男たちが藩邸内に逗留していることは知っていたが、誰も何も教えてくれないので、支藩の者だと思い込んでいた。
───長州藩士たちが、なぜ薩摩藩邸に。
「お邪魔でなければ、まずは一献」
二人は卓子を隔てて、利良の反対側に座すと、お藤の運んできた燗酒を掲げた。
「かたじけない。それがしは川路正之進と申します」
「お役職は───」
───まさか与力とも言えない。
二人は利良の格好から、いっぱしの士分だと思っている。
「西郷と大久保の手伝いをしております」
「ほほう」
二人は顔を見合わせた。
───わしは、ただの使い走りではないか。
多少のうしろめたさを感じつつも、利良は胸を張った。
「こちらの店は、以前からご存じで」
再び酒を注ぎながら、伊藤が問うてきた。その目にあった警戒心が薄れてきている。
「はい。まあ、さほど昔ではありませんが───」
助けを求めるようにお藤を見たが、こちらを無視して次の料理の支度をしている。
「われらは以前から、こちらによく来ておりました」
「ほほう」
「ここのところ、ずっと貴藩邸に篭っておるような生活で、気詰まりなので、たまには外に出てみようということになりまして」
「よくぞここまで───」と言いかけて、利良は口をつぐんだ。
「ご心配なく。われらは京が長いので、新選組やら見廻組やらといった地理不案内な者たちに見つからずに、どこへでも行けます」
替わって木戸と名乗った男が問うてきた。
「確か川路殿と言えば───」
記憶を探るように懐手をした後、木戸が言った。
「禁門の変の折、当藩の篠原秀太郎を斬ったお方ではありますまいか」
───まずい。
利良は、咄嗟に右下に置いた両刀に視線をさまよわせたが、それに気づいた木戸が笑みを浮かべた。
「やはりそうでしたか。ご安心下さい。ここで恨みを晴らそうなど考えてはおりません。そんなことは、死んだ篠原も望んではいないでしょう」
「いや、驚きました」
今度は伊藤である。
「篠原ほどの達人を斃したのだ。川路殿の腕は相当のものですな」
「いえ、篠原殿はすでに手傷を負っていました。一対一だったら、それがしなど敵いません」
ここでは、謙遜しておくのが無難である。
「真にもって立派な心掛け。川路殿のようなお方に斬られ、篠原も浮かばれたでしょう」
「そう言っていただけると、気持ちが楽になります。まあ、一つまいりましょう」
川路が二人の盃に酒を注いだ。
「何たる奇遇か。こうして薩摩藩有数の剣士と知り合えて、幸先いいですな」
「そうだな。とくに西郷殿と大久保殿に近い立場の方と、こうして酒を酌み交わすことになるとは思わなんだ」
「こちらこそ」
確かに今後のことを思えば、木戸や伊藤といった長州藩の顔役と会えたことは、利良にとっても幸いだった。
「では、貴藩と当藩のことについては、ご存じですな」
木戸が、さも当然のように問う。
「はっ、まあ───」
「それはよかった」
藩邸内で、長州藩と何らかの形で手を組むという噂は聞いていたものの、使い走りのようなことをやっている利良には、断片的な情報しか入ってきていない。
「明日、坂本殿が参られるとのことで、いよいよ同盟条件の詳細を詰める段となりました」
───確か西郷先生が、双方の間を周旋しているのは、坂本という御仁だと言っていたな。
今の状況が、ようやく腑に落ちてきた。
「そうでしたか。話がうまく進めばよいのですが」
「ご存じの通り、われらは日本国すべてを敵に回すほどの苦境に陥っておりました。まさか仇敵の───、いや失礼」
二人が笑ったので、利良もそれに合わせて笑みを浮かべた。
「かつて仇敵だった貴藩が、われらを助けてくれるとは思いませなんだ」
「いかにも貴藩とわれらは、つい先頃まで敵同士でした。しかしわれらには、貴藩に対して憎悪の気持ちなど全くありません。とくに小松、西郷、大久保の三人は、外夷に対して、いかにこの国を守っていくかだけを考えています。貴藩と手を組むのが、この国にとってよいことだと思えば、そうするだけです」
「ありがたい」
木戸が感無量といった顔つきで盃を上げる。
───よほど辛かったんだな。
孤立するということがどれほどの重圧となるか、利良は知った。
───そうか。孤立させればよいのだ。
その逆に、敵を孤立させれば、その心に圧迫を加えることは極めて容易なのだ。
「木戸さん、伊藤さん、今宵は飲みましょう」
「そうですな」
「お待たせしました」
ちょうどお藤が料理を運んできた。
「京大根どす。今朝方、出入りのお百姓さんが届けてくれはりました」
いかにも煮汁の染み込んだ太い大根が、湯気を上げている。
「こいつは、うまそうだな」
「料理は、やはり京が一番だな」
二人が舌鼓を打つ。
「仰せの通りです」
利良が、にこやかにうなずく。
「そういえば薩摩の大根は、実にうまい」
伊藤が思い出したように言った。
「それほどでもありません。薩摩は火山灰が降り積もっておるから、芋か大根しか穫れませんが、こちらに来ると、うまい野菜が、いろいろ食べられるのでありがたいことです」
「あら、川路はんはお野菜がお好きなんどすか」
追加の燗酒を運んできたお藤が問う。
「ああ、こまんか頃は、それしか口に入れておらんかったからな」
「こまんか、とは───」
伊藤が問う。
「ああ、童子んこっです。あっ、いや、酒が入ると故郷の言葉が出てきてしまう。こいつは申し訳あいもはん」
皆がどっと沸く。酒が回り、利良も気分がよくなってきた。
うまい地酒と料理で、三人は談論風発し、夜更けてからそろって藩邸に帰った。